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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

2021/031234567891011121314151617181920212223242526272829302021/05

樺崎八幡宮と樺崎寺。[足利市]

足利市にある国指定史跡「樺崎寺跡」にやって参りました。
こちらは境内にある「樺崎八幡宮」です。


=== 案内板より ===
樺崎八幡宮・史跡樺崎寺跡
足利義兼は、文治5年(1189年)、奥州合戦の戦勝祈願のため、
理真上人を開山として、この地に樺崎寺を創建しました。
樺崎八幡宮は、正治元年(1199年)に当地で入寂した義兼を、
子の義氏が八幡神とともに合祀したことに由来します。
以降、樺崎寺は足利氏の氏寺である鑁阿寺の奥の院、そして一族の廟所として
崇敬を集めますが、明治初めの神仏分離令により廃寺となります。
樺崎八幡宮も含めたこの遺跡は、足利氏ゆかりの遺産として大変貴重です。
云々。。。



樺崎八幡宮と樺崎寺。[足利市]

本殿脇にある「赤御堂跡の石段」。

===
赤御堂跡の石段
発掘調査では樺崎八幡宮本殿のすぐ北側で、
義兼がまつられた赤御堂へ上がるための石段が発見されました。
当時は石段の正面にお堂が建てられていたことが推定されます。
義兼は赤御堂のかたわらで生入定したとされ、
本殿床下には義兼の墓標が立てられています。
云々。。。



樺崎八幡宮と樺崎寺。[足利市]

足利義兼公入定の地の案内。
墓標が建っています。



樺崎八幡宮と樺崎寺。[足利市]

神社の前には、樺崎寺の発掘調査の後に復元整備された
浄土式庭園が広がります。



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光得寺。[足利市]

出世稲荷神社からすぐです、
光得寺」にやって参りました。
in 足利市。

ずいぶん前に、運慶作と伝わる大日如来座像が発見されたことで
一躍有名になったお寺さんです。


=== 案内板より ====
臨済宗 菅田山 光得寺
寺伝によれば、開山は、鑁阿上人勅諡赤御堂八幡大菩薩(足利義兼公)、
開基は、光得寺殿正義大禅定門(足利義氏公)である。
寺内にある厨子入大日如来座像、五輪塔、寺外墓地地蔵堂の黒衣地蔵は、
開山、開基、足利氏、及び樺崎八幡宮、法界寺に縁のものであるが、
明治時代に当寺に移されたと考えられている。
現在の臨済宗の法系は、元禄年間の中興霊室慧苗和尚以降
伝わったと思われる。
詳細については、明治元年の火災等により古文書を焼失しているため
不明である。



光得寺。[足利市]

というわけで、今回のお目当てはこちらです。
光得寺 五輪塔群」。



光得寺。[足利市]

覆屋の中に19基の五輪塔が保存されています。


===
光得寺五輪塔 19基
これら五輪塔群は、足利氏歴代と足利氏の重臣高氏の供養塔です。
もともと足利氏の廟所である樺崎寺にまつられていましたが、
明治初期の神仏分離令に伴い、法縁のある光得寺に移設されました。



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令和3年〝初詣〟[足利市*鑁阿寺]

2021年「初詣」。
足利市の「鑁阿寺 ばんなじ」であります。



令和3年〝初詣〟[足利市*鑁阿寺]

日の出も間もない時間、、、
人出もまばら。

さぶぅ~いっ、、、



令和3年〝初詣〟[足利市*鑁阿寺]

「大銀杏」と「多宝塔」。



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悪源太義平の墓。[太田市*清泉寺]

太田市にある「清泉寺」にやって参りました。
こちらのお寺さん、誰も居なくてちょっと荒れた感じなのですが。。。

正面入口の門のところにこんな案内板があります。


=== 案内板より ===
清泉寺
義平山清泉寺は、東京湯島霊雲寺に属し真言律宗の祈祷寺であった。
創建はつまびらかでないが平安末期に悪源太義平(よしひら)の妻が
ここに庵を結んだのがこの寺の起源だといわれる。
時を経て江戸時代の寛保年中(1741~1744)高健教岳により中興された。

悪源太義平は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄である。
15歳の時叔父義賢(よしかた・木曽義仲の父)を
武蔵大蔵館(現嵐山町)に討ち悪源太といわれた。
ここで悪とは善悪の悪ではなく勇猛という意味である。
平治の乱には父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門(たいけんもん)の戦いでは
平家の嫡子重盛と一騎打ちをしたことで有名である。
戦局は源氏に利非ず父義朝は討たれた。
義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったが捕えられ
六条河原で斬首された(20歳)。
義平の妻は新田義重の娘であったが、
夫の死を知り京に上ってその首を秘に持ち帰りこの地に埋葬し、
剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったという。
当時の山号を義平山というのもそれゆえである。

境内西側に義平と称する石塔があり次の銘文がある。
悪源太義平公御廟
永暦元庚辰年正月廿五日
永暦元年(1160)は義平の没年である。
また傍の宝篋印塔は梵字のみで銘文がなくその由来は全く不明であったが
昭和55年経筒が発見されその中の経文の奥書により
8代将軍吉宗の次子田安宗武が、娘誠姫と婚約者の伊達重村の寿福を祈願して
霊雲寺四世法明に命じて宝暦5年(1755)建立させた。
云々。。。


悪源太こと「源義平の墓」があるんです。
源頼朝さんのお兄さん★

では参りましょう。



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元津軽藩代官足立氏之墓。[太田市*東楊寺]

太田市の「東楊寺」さんにやって参りました。
なぜこちらのお寺さんに来たのかと言えば。。。

そうですっ、



足立氏の墓。[太田市*東楊寺]

ドンっ!

元津軽藩代官足立氏之墓」があったから!
ずらりと並ぶ歴代津軽代官の方々のお墓。



元津軽藩代官足立氏之墓。[太田市*東楊寺]

一番左の宝篋印塔は初代代官・足立源右衛門さんのもので、
その右にある五輪塔は2代・源右衛門さんのものだそうです。


=== 案内板より ===
尾島町と弘前市
尾島町と青森県弘前市(津軽藩)との歴史的なゆかりは、
戦国時代末期にまでさかのぼる。
津軽藩は為信のとき、南部氏より自立、天正18年(1590)には
豊臣秀吉の小田原征伐に参戦、奥州平定にも味方し、
秀吉から津軽一円の領有を認められていた。
為信の二男信堅は徳川家康に仕え上州の地2千石を与えられていたが、
若くして亡くなったと伝えられる。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に、為信は徳川方として参戦したが、
上州の津軽領大舘村をはじめ八ヶ村の農民も従軍したと伝えられる。
このとき津軽の本領4万5千石は、家康から安堵され、
翌6年には関ヶ原の戦功により、信堅ゆかりの上州2千石が、
あらためて加増された。
上州八ヶ村は大舘村、安養寺村、出塚村、村田村、赤堀村、
下江田村(現太田市)女塚村、境村(現伊勢崎市)であり、
その中心大舘村に足立氏を代官として居住させ、これを管割させた。
大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、江戸と至近な距離にあったため、
参勤交代など江戸出府の折りには藩主も滞在した。

2代藩主信枚のぶかず(のぶひら)の側室辰姫(一説には石田三成の娘)は
大舘御前と呼ばれ、この陣屋で誕生した信義は津軽第3代の藩主となった。
明暦2年(1656)3代藩主信義の弟信英(のぶふさ)は黒石に分家するが
上州の地2千石はこのとき信英の領地となり、
以後元禄11年(1698)まで津軽分家(文化6年黒石藩となる)の領地であった。
津軽初代為信は慶長年間(1596~1615)安養寺明王院に畑三反を寄進、
津軽分家(黒石)2代信敏は天和2年(1682)に大舘に八幡の社殿を建立したと
弘藩記録は伝えている。
東楊寺には代官「足立草宿大居士」の五輪塔をはじめ足立氏ゆかりの墓石があり、
大舘村には前記信敏建立と考えられる八幡宮本殿が現存し、
また信敏在銘の八幡神像の絵軸が保存されている。
云々。。。



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