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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

2021/031234567891011121314151617181920212223242526272829302021/05

甲塚古墳。[下野市]

下野市です。

「下野国分寺跡」のすぐ隣にあります。
一見雑木林、しかし案内板が建っているのでそれが古墳と気付きます。
甲塚古墳」です。

「しもつけ風土記の丘資料館」では拝見出来なかった、
あの〝機織形埴輪〟が出土した古墳なのですっ。



甲塚古墳。[下野市]

=== 案内板より ===
史跡 甲塚古墳(かぶとづかこふん)
甲塚古墳は、6世紀後半頃に築造された帆立貝形の前方後円墳です。
墳丘は2段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇)の幅が広いのが特徴です。
墳丘の大きさは、推定全長80m、墳丘第一段はほぼ円形で、
外縁の直径が61mになります。
南側は前方部側に張り出す可能性がありますが、未調査のためわかっていません。
墳丘第二段は全長47m、後円部径34m、前方部長14.5m、
前方部前端幅17mになります。
埋葬施設は凝灰岩の切石を使用した横穴式石室が
前方部の前端に確認されています。



[甲塚古墳。[下野市]]の続きを読む
下野国分寺跡。[下野市]

下野市です。

前回に続いての「下野国分寺跡」です。
久しぶりに訪れた史跡ですが、ずいぶんと綺麗に整備されていたので驚きました。
これなら見学しやすいですネ。



下野国分寺跡。[下野市]

===
下野国分寺跡
寺院の規模と時期別変遷
下野国分寺跡は、奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の詔によって
全国60数か所に建てられた国立の寺院のひとつです。
伽藍(寺の建物)配置は、全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式で
南北一直線上に南から、南大門・中門・金堂・講堂・僧房が並び
中門と金堂は回廊によってつながっています。
塔は回廊の外側東方におかれ、基壇の規模から七重塔であったと
推定されています。
また、金堂・講堂を挟んで東西には経蔵・鐘楼がおかれています。
これまでの発掘調査で、寺院の敷地が東西413m、南北457mの広さであることや
金堂、塔など建物の大きさが判明しました。また、溝や堀などのつくりかえから、
伽藍地とその外側を区画する寺院地の範囲や変遷が明らかになり、
1~4期に時期区分されています。
1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの創建期、2期(8世紀後半~9世紀前半)は
主要堂塔が完成し、それらの建物を掘立柱塀で囲む時期、
3期(9世紀後半)は伽藍地を縮小して掘立柱塀を築地塀につくりかえ、
寺院全体を大改修した時期、4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修や
溝の堀り直しをおこなわなくなる衰退期と考えられています。
下野国分寺の終焉は明確になっていませんが、
遺構・遺物からみると11世紀ないし12世紀まで寺院として機能していたと
考えられます。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市] 下野国分寺跡。[下野市]
(写真はクリックで大きくなります。)

===
寺院地溝
■寺院地溝とは
・寺院空間を区切るための溝。
■規模
・東西413m・南北458m、幅約2m・深さ約1mの溝。
・北東隅が折れ曲がっているのは地形の制約(低地)のためと考えられます。
辺は甲塚古墳の周溝を避けて掘られています。
■変遷
・複数回の堀り返しがありますが、10世紀以降は自然に埋まったと考えられます。
■現状
・南西隅・北西隅部は県道の西側です。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市]

===
南門
■南門とは
・寺院の敷地として区切られた空間へ出入りするための門。
■構造
・掘立柱の門。瓦葺きでない。
・門の形は不明。柱の間隔が広すぎるので、形がわかりませんでした。
(屋根のつかない冠木門の可能性もあります)
■規模
・柱の間隔6m。
■建て替え
・2回以上の掘り返しが確認されています。
・最終期は、直径30cmの太さの柱使用。
■門と参道
・門の正面の寺院地溝は、土橋状に埋め戻され、通路になっていました。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市]

下野国分寺跡。[下野市]

===
南大門
■南大門とは
・築地塀で区切られた伽藍空間への南側出入口。
■構造
・基壇の規模から建物(推定)五間三戸(両端が壁で扉が3か所)の門と考えられます。
■基壇規模
・東西約21m(70尺)・南北約9.6m(32尺)礎石の位置や階段の幅や出幅は
不明のため復元表示していません。
■変遷
①創建当初、門は無かったと考えられます。
②8世紀後半に掘立柱塀と共に棟門(柱間3.9m)ができました。
③9世紀後半に瓦葺き基壇建物と築地塀に建て替えられたと考えられます。
■見学の際の注意
・礎石の位置や階段の幅・出幅は不明のため復元表示していません。
・階段の形状は復元ではありません。
云々。。。



[下野国分寺跡。June. 2020 その2 [下野市]]の続きを読む
下野国分寺跡。[下野市]

下野市です。

下野国分尼寺跡に続いてやって参りました、
下野国分寺跡」です。
以前来た時よりもずいぶんと整備されております。

と、史跡を拝見する前に、
案内パネルで少し予備知識を入れておきましょう。



下野国分寺跡。[下野市]
「平城京大極殿」。


=== 案内板より ===
1.時代背景
はじめに
国分寺が造られたのは、今から約1250年前。
皆さんはそのころの様子やなぜ国分寺が造られたのか想像できますか?

律令国家の成立
飛鳥・藤原京の時代、「日本」という中央集権的な国家をつくるため、
唐(中国)の法律を参考に西暦701(大宝元)年、大宝律令がつくられました。
この法律制定事業には、下野市と関係の深い下毛野朝臣古麻呂が
深くかかわっていました。
その後、都が平城京(現在の奈良市・710~784の74年間)に置かれた
この奈良時代に、下野国分寺と尼寺は造られました。
※律は罪と罰を定めた刑法、令は国を治めるしくみを定めた法令

天平の光と影
聖武天皇の時代、律令制度が整い国家の力が全国に及ぶとともに、
唐や東アジアなどとの交流により、国際色豊かな天平文化が花開きました。
しかし、この華やかな時代背景の一方で、
現実の社会の動きと律令制度の間で様々な矛盾があらわれてきました。
西暦729年には、年号が神亀から天平にかわりました。
この「天平」改元の背景には、伝染病の流行、災害、政治の混乱など、
不安と苦悩から逃れたいとの願いがあったとも言われています。
云々。。。



下野国分尼寺跡。[下野市]
「東大寺金堂(奈良市)」。

===
2.国分寺建立について
国分寺建立の目的
700年代の中頃、飢餓や病気の流行、地震などの災害、
貴族の対立や政治の混乱により社会に不安が広がりました。
741(天平13)年、聖武天皇は大陸から伝わった仏教の教えで
国が安泰となることを願い、当時60余りの国ごとに国分寺と国分尼寺を
造ることを命じました(国分寺建立の詔)。
この建立の背景には、聖武天皇とともに妃である光明皇后の
仏教への厚い信仰があったからといわれています。
僧寺には、像高一丈六尺(4.8m)の釈迦如来像や脇侍菩薩二体、
四天王像が安置され、尼寺には阿弥陀丈六仏や脇侍菩薩二体などの仏像が
安置されました。



[下野国分寺跡。June. 2020 [下野市]]の続きを読む
下野国分尼寺跡。[下野市]

下野市です。
「しもつけ風土記の丘資料館」にて軽めにお勉強をした後は、
同じ公園内にある「下野国分尼寺跡」にやって参りました。


こちらは「中門址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

「金堂址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

「経蔵址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

=== 案内板より ===
史跡 下野国分尼寺跡
国分尼寺の建立は、奈良時代の天平13(741年)、
聖武天皇が国家の平安を祈願し、国分寺建立の詔を発したことにはじまります。
国分尼寺は国分寺と同様に国ごとに建てられた官立の寺院で、
妙法蓮華経を根本の経典とし、10人の尼が置かれていました。



[下野国分尼寺跡。June. 2020 [下野市]]の続きを読む
しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

下野市です。
最近、下野市?というか、たぶん3月頃の記事です。
今になってのアップであります。。。


しもつけ風土記の丘資料館」。
下野国分寺跡のお隣にある博物館です。
さっそく参りましょう。



しもつけ風土記の丘資料館。[下野市] しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]
(写真はクリックで大きくなります。)

=== 案内板より ===
重要文化財指定 甲塚古墳出土遺物
甲塚古墳は、隣接する下野国分寺跡史跡整備事業の一環として、
平成16年度に発掘調査を実施しました。
出土した遺物は、遺存状態が良好なため、
埴輪の置かれていた位置や方向が判りました。
さらに、埴輪列の近くから多くの土器類がまとまって出土したことで、
古墳でおこなわれた当時の儀礼が復元できました。
また、類例のない2種類の機織型埴輪が出土したことで、
古墳時代における織機の構造と多様性が明らかになりました。
これらの遺物は、高い学術的価値を有しているとされ、形象埴輪23点、
土器類74点の合計97点が、重要文化財に指定されました。
云々。。。

しもつけ風土記の丘資料館。[下野市] しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

===
甲塚古墳 馬形埴輪彩色復元
形象埴輪列は、基部が墳丘上に樹立した状態で残存しており、
古墳築造当時の配置状況を復元することができました。
また、埴輪の遺存状態が良いことから埴輪に塗られた彩色
(赤・白・黒・灰)についても復元することができました。
云々。。。



しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

===
出現期の古墳
古墳の築造は、3世紀末か4世紀はじめころに、畿内地方を中心に開始され、
やがて4世紀後半ころには東北南部から九州南部にかけて
広く分布するようになりました。
古墳の出現は、新しく台頭した政治的支配者の存在を示しており、
古墳の各地への広がりは、地方の首長が大和政権の影響下に入ったことを
意味しています。
本県では、他地域に先んじて那須地方(那珂川流域)と宇都宮地方(田川流域)
に古墳が出現し、古墳時代の幕が明けられました。
云々。。。



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