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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

2021/031234567891011121314151617181920212223242526272829302021/05

末廣ラーメン本舗 秋田駅前分店。[秋田市]

いやいやいや~、
おもろさん、盛り上がったな~。
間に1軒はさんで、やっぱり〆はラーメンでしょうか?

秋田駅から程なくのところにある、
末廣ラーメン本舗」にお邪魔してます★


末廣ラーメン本舗 秋田駅前分店。[秋田市]

年中無休、24時間営業という、最強の営業スタイル。
栄養満点、滋養強壮というレトロなキャッチコピーにも惹かれます。

夜遅く、時間も時間ですが、
けっこう混んでます。


末廣ラーメン本舗 秋田駅前分店。[秋田市]

生ビールをひとついただいた後、
私が頼んだのは定番の「中華そば」。
酔った勢いで大盛りに。。。


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おもろ。[秋田市]

秋田城、久保田城と巡り、ごちそう三昧の今日ですが、
夜は夜で、またごちそうに出会いました♪

友人Kクン達と連れ立ってやって来たのは「おもろ」さん。
地モノと地酒が楽しめる人気のお店です。

真ん中のテーブル席に陣取りました。
先ずは、と言いますか、初っ端から日本酒です、もちろんっ。
「ゆきの美人・雄町」。お通しは「男鹿のめかぶ」。
どんどん行きます!


おもろ。[秋田市]

「ひろっこの酢味噌和え」。


おもろ。[秋田市] おもろ。[秋田市] おもろ。[秋田市]

「クレソンのナムル」、「生たらこの炒り煮」、「お刺身盛り合わせ」。


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久保田城跡。[秋田市]

「秋田城」に続いてやって参りました、
久保田城」です!
歴代佐竹氏の居城跡。
今は「千秋公園」として整備されています。

ここはお堀のとこの「大手門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

=== 案内板より ===
千秋公園の由来
この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。
久保田城は、慶長7年(1602)常陸から国替となった
初代秋田藩主佐竹義宣(よしのぶ)が翌8年に築城したもので、
天守閣と石垣のない城であった。

明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、
明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。
昭和28年(1953)再び秋田氏に移管、継続的に整備、管理されてきたが、
昭和59年(1984)に、15代佐竹義栄氏の意志により秋田市に寄贈されて、
名実ともに市民の公園となった。

千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、
「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、
長い繁栄を祈ったものと言われている。
云々。。。


久保田城跡。[秋田市]

「松下門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

「長坂門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

===
御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、
配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側十四畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。
北側には七畳半の休憩所や台所・便所があり、
中二階には八畳の部屋が配置されている。

『国典類抄』などの資料によれば、御物頭御番所は
宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では
類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。
久保田城内では旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。
昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
云々。。。


久保田城跡。[秋田市]

===
久保田城表門
表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、
左手には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、
門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」
を置いて厳重な守りを固めていた。

久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、
表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、
構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、
佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
云々。。。


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秋田城跡。[秋田市]

秋田城跡歴史資料館に続いてやって参りました、
秋田城跡」ですっ。

資料館の前、道路をはさんで反対側にあります。


秋田城跡。[秋田市]

城跡といっても、戦国時代にあったような
天守閣のあるお城ではなくて、古代大和朝廷が造った
城柵(じょうさく)です。


秋田城跡。[秋田市]

建物とかは無くて、
門や塀が復元されたシンプルな史跡だけれど
楽しみ~♪


秋田城跡。[秋田市]

=== 案内板より ===
北東建物跡
ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。
Ⅰ期~Ⅲ期の建物はいづれも東西の方向に長く、
Ⅱ期では、東西両側に壁で仕切られた部屋があり、
建物の南には、目隠し塀が付いていました。
壁で仕切られた部屋のある役所の建物は、後殿や脇殿に見られますが、
分室化されているのは、建物の機能や使われ方に関係があるものと考えられます。
云々。。。


秋田城跡。[秋田市]

===
正殿跡
正殿は、秋田城で最も重要な建物です。
庁内の建物で正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、
定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、
宴も行われていたと考えられます。
また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。
この建物は、同じ場所で6回建て替えられています。
最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物ですが、
それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。
云々。。。


秋田城跡。[秋田市]
政庁第1期 (733年~770年頃)

===
政庁とは
政庁の機能
政庁は、秋田城跡で最も重要な区域です。
政庁内の建物である正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、
定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷の人々を迎え、味方に引き入れる目的で、
位階や布などを与えたり、宴を催したりしていました。
また、文献資料や水洗厠舎跡から検出した有鉤条虫卵の存在から
渤海(ぼっかい)など外国からの使節を迎えての儀式も行われていたと考えられます。
云々。。。


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秋田城跡歴史資料館。[秋田市]

秋田駅~秋田城跡歴史資料館前まで。
バスにゆられて2~30分。


秋田城跡歴史資料館。[秋田市]

やって参りました「秋田城跡歴史資料館」。
秋田城関連のごちそうがテンコ盛りの歴史資料館です。

たくさんの資料、遺物が展示されていますが、
ウレシイことに館内の写真撮影OKなのです。そして、更に!
ガイドの方が付いてくれ、ひとつひとつ丁寧に説明してくれます♪
素晴らしい。。。


=== 案内板より ===
秋田城とは?
秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国)
に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。
蝦夷の人々が暮らしていた東北各地に、
同じように造られた律令国家の地方官庁の遺蹟は
「城柵官衙遺跡」と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。

天平5年(733)に、秋田村高清水岡に移された当初は「出羽柵・でわのき」と呼ばれ、
天平宝字4年(760)ごろに、秋田城と呼ばれるようになりました。
奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、
また津軽(青森)・渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海(ぼっかい)国(中国東北部)など
対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。


秋田城跡歴史資料館。[秋田市]

平安時代に入り、元慶2年(878)の蝦夷の人々による元慶の乱を経て、
10世紀の中頃まで機能しました。
10世紀後半には古代城柵としての機能は失いますが、
歴史書には「秋田城」の名称や官職名としての「出羽城介」、「秋田城介」
が記されています。
また、鎌倉時代以降、「秋田城介」は北方を鎮護する役職名となり、
武門の名誉となっていきました。

昭和14年には遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されています。
現在は約90ha(893733㎡)の範囲が指定された範囲となっています。
云々。。。


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