
「宮崎県総合博物館」の西側にある「民家園」です。
田舎のおばぁちゃんちに来たような、
昔の古い家が移築、展示されています♪
なんとなく懐かしい★
こちらは民家園に行く途中にあった「錨塚」と「道標」。
=== 案内板より ===
錨塚(いかりづか)
石碑の製作年代や、もとの所在地はわかりません。
記銘から神武天皇の東征伝説に関する石碑だと思われます。

===
都農町道路元標
道路元標とは、道路の起点と終点の基準となる標識です。
大正8(1919)年、主な国道を整備するときに制定された
旧道路法によって置くことが決められました。
この道標は、現在の都農町の国道沿いに置かれていたものです。

===
民家園とは
宮崎県内各地には、かつて、その地方独特の建築様式をもった
民家が多数ありました。そのなかから特色ある4棟の民家を、
宮崎県総合博物館民家園に、昭和47年から昭和53年にかけて移築復元しました。
今から、約150年から20年前に建てられたものです。

椎葉村「椎葉の民家」
並列型民家の典型で、部屋を一列に横に並べる間取りです。
解体中に発見された墨書から、元治元(1864)年に建てられたことが
わかっています。

「宮崎県総合博物館」です。
宮崎神宮の境内と言ったら良いのでしょうか?
地図で見ると、社殿の北側にあります♪


そんなに大きな建物ではなかったのですが、
入って見てビックリ!
ヒジョーに充実した博物館でありましたっ。
しかも無料!(常設展のみ。各展示会の観覧料はその都度決まります。)





(写真はクリックで大きくなります。)
すごい数の展示資料がありましたが、
ちょこっと気になるものをご紹介します★

=== 案内より ===
狩りに明け暮れる日々
旧石器時代の人々は石器を主な狩猟の道具として、
ナウマンゾウ・オオツノシカ・野牛などの大型動物を追いながら
日本列島に住みつき、狩りと食糧採集によって日々を暮らしました。
云々。。。


===
縄文人の食卓
気候の温暖化によって、縄文人を取り巻く自然環境が豊かになり、
食生活も多彩になりました。
主食はドングリ
縄文土器の深い鉢型は“ドングリのあくぬきを目的として形造られたもの”
との考えもあります。宮崎県内でも、清武町などで
ドングリを貯蔵した穴がみつかっています。

「新鮮です。」
群馬県館林市にやってきました。
駅からタクシーに乗車、ベテランらしい運転手さんに
「ぼすけさんまでお願いします」と告げたら?顔。

うろ覚えの住所を頼りにしばらく走り、
幹線道から一本奥へ入った閑静な通りに出ると、
運転手さんもようやく「ああ、あのお店!」と合点してくれてようやく到着。
オープンして間もないそのお店、ベテランらしい運転手さんもまだ知らないらしい
鮮度抜群の「肉家 ぼすけ」さんで、新鮮・上質なお肉をいただいてきました♪
新鮮な「センマイ」「コブクロ」と共に、
まずは生ビールでキュウ~と1杯。
かわいらしさとシックな雰囲気が醸しだされた店内に
気持ちが和みます。

「豚レバ刺し」。
3種類のタレを用意してくれました。
プリプリしています!新鮮です。


続いて「牛タン塩」「黒毛和牛ハラミ」。
なんて上質な食感!見た目も鮮やかで新鮮です。

「黒毛和牛カルビ」。
脂の質が上品なせいか胃にスッと吸収されます。
=== リーフレットより ===
ご祭神 神日本磐余彦尊天皇(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)
相殿 左 鸕鷀草葺不合尊 右 玉依姫命
神武天皇のご偉業
神日本磐余彦尊天皇は、ご幼名を狭野命と申し上げました。
天照大御神から5代目の御孫にあたります。
鸕鷀草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命と申します。
天皇は、御年15歳の時皇太子に即かれ、政治(まつりごと)をとられましたが
当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく
皇威が全国に輝くというわけではありませんでした。
そこで天皇は父祖のご意志を継ぎ天下万民が幸せに暮らせるようにとお考えになり、
御年45歳の時に都を日本の中央に遷すべく、美々津の港から船出され、
ご東征の途につかれました。

「宮崎の宮」(宮崎神宮所蔵)。
皇軍は、海路速吸門(豊予海峡)を通過、菟狭(うさ・大分県)、岡水門(福岡県)、
埃宮(えのみや・広島県)にお寄りになり、翌年3月には更に高嶋宮(岡山県)に到り、
3年を行宮に座して軍備を整えられました。
それから浪速路の河内国草香邑(大阪府)に上陸されたのですが、
賊酋長髄彦が降服しなかったことから、遂に道を改め、海路紀伊国へ
熊野路(和歌山県)から攻め入らせられたのです。
此の間、皇兄五瀬命(いつせのみこと)は戦傷で薨去され、
また熊野灘では皇兄三毛沼入野命(みけいりぬのみこと)と稲飯命
(いなひのみこと)を始め幾多の将兵を失われるなど、
苦戦艱難をなめさせられました。
熊野に上陸すると天皇は、高倉下や八咫烏の忠勤によって大和に攻め入り
ご平定遊ばされました。
そして、畝傍の橿原に宮殿を建てさせられ「八紘を掩いて宇と為さむ」
とおっしゃって、第一代の天皇(神武天皇)にご即位遊ばされました。
ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。
ご祭神 神日本磐余彦尊天皇(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)
相殿 左 鸕鷀草葺不合尊 右 玉依姫命
神武天皇のご偉業
神日本磐余彦尊天皇は、ご幼名を狭野命と申し上げました。
天照大御神から5代目の御孫にあたります。
鸕鷀草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命と申します。
天皇は、御年15歳の時皇太子に即かれ、政治(まつりごと)をとられましたが
当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく
皇威が全国に輝くというわけではありませんでした。
そこで天皇は父祖のご意志を継ぎ天下万民が幸せに暮らせるようにとお考えになり、
御年45歳の時に都を日本の中央に遷すべく、美々津の港から船出され、
ご東征の途につかれました。

「宮崎の宮」(宮崎神宮所蔵)。
皇軍は、海路速吸門(豊予海峡)を通過、菟狭(うさ・大分県)、岡水門(福岡県)、
埃宮(えのみや・広島県)にお寄りになり、翌年3月には更に高嶋宮(岡山県)に到り、
3年を行宮に座して軍備を整えられました。
それから浪速路の河内国草香邑(大阪府)に上陸されたのですが、
賊酋長髄彦が降服しなかったことから、遂に道を改め、海路紀伊国へ
熊野路(和歌山県)から攻め入らせられたのです。
此の間、皇兄五瀬命(いつせのみこと)は戦傷で薨去され、
また熊野灘では皇兄三毛沼入野命(みけいりぬのみこと)と稲飯命
(いなひのみこと)を始め幾多の将兵を失われるなど、
苦戦艱難をなめさせられました。
熊野に上陸すると天皇は、高倉下や八咫烏の忠勤によって大和に攻め入り
ご平定遊ばされました。
そして、畝傍の橿原に宮殿を建てさせられ「八紘を掩いて宇と為さむ」
とおっしゃって、第一代の天皇(神武天皇)にご即位遊ばされました。
ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。


「草津温泉」であります。
今回お世話になるのは「ホテル 櫻井」さん♪
草津温泉の中でも有数の大型観光ホテルです★
和風のお部屋は綺麗で広ぉーい!
しかもこの絶景。

おぉーいっ!誰かいるかーっ?!
って呼びたくなるくらい広い「大浴場」!

温泉は「万代鉱」と「西の河原」の混合。
湯量が豊富でしかも高温。だからこんなに大きなお風呂でも
源泉かけ流しでOKなわけです♪
すごーいっ★


(写真はクリックで大きくなります。)
こちらは「露天風呂」です。
露天に引かれているのは貴重な「わたの湯」源泉。
湯花の成分が多くて、ホント真っ白♪
大浴場のお湯に比べて、とてもやわらかです。
あっちへ行ったり、こっちへ来たり、
大浴場と露天風呂。何回入ったろう。サイコウであります。。。

良く食べて飲みました!in 宮崎市。
それでも、心の隙間に入り込む、まだイケるかも~、
って気持ち。
気がつけばラーメン屋さんのカウンター。
芋焼酎「霧島」のオンザロックをいただいております♪

地元・宮崎ってアルコールが20度なんですねー。
関東では見かけたことない。
「ギョーザ」をいただきながら、ちびちびと飲ります。

そうそう、こちらのお店!
「オロチョンラーメン 味七」さん♪
〝オロチョン〟てなんですかー?
=== ウィキペディアより ===
~前略~
北海道網走市ではオロチョンの火祭りが行われているが主体はアイヌである。
これは、「オロチョン」という言葉が
アイヌを含む北方民族全体を指す呼称として用いられた時期があり、
その名残りである。
現在でも、語呂の良さから「オロチョン」の呼称が用いられているが、
本項の民族に火祭りという文化はなく、全く関係がない。
味噌ラーメンを唐辛子等で辛く味付けした、「オロチョンラーメン」
(またはラーメン店名がオロチョン)というものもあるが、
オロチョンの火祭りから連想された名称である。
云々。。。
![チャコールハウス。[足利市]その1](https://blog-imgs-62-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1305chako-1.jpg)
以前はJAZZコンサートとか、よく開催されていたみたいだけれど、
最近はどうなのかなぁ。
久しぶりにお邪魔しました「チャコールハウス」さん。
足利市にあるステーキレストランです。
![チャコールハウス。[足利市]その2](https://blog-imgs-62-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1305chako-2.jpg)
先ずはデキャンタで赤ワインを♪
テーブルワインですから、軽くて飲みやすいっ。
上手に冷えててクイクイです。
「ブロッコリーのピクルス」。
メニューには出てないのですが、いただきました★
これが止まらないんです!美味しっ。
下に敷いてあるのは葡萄の葉。
![チャコールハウス。[足利市]その3](https://blog-imgs-62-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1305chako-3.jpg)
「マグロのあぶり焼きポワロソース」。
今月のおすすめコースからの前菜です。
お得感のあるコースメニューです。
やわらかい甘さを持ったポワロソース。
厚切りのマグロと良く合います♪
![チャコールハウス。[足利市]その4](https://blog-imgs-62-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1305chako-4.jpg)
「サラダ」です。
野菜はたくさん摂りましょうっ。
赤ワインっ、も一つくださいっ(笑

せっかくの宮崎。
地鶏料理が食べたいなー、というわけでやって参りました。
「鶏みょうが屋」さんです!
焼き肉の名店と言われる「みょうが屋」さんの姉妹店。
楽しみ~♪

で、着いたのが開店30分前。
しかし、この時点でテーブルは満席!カウンターが数席残るのみだと言います。
もちろんカウンターでも喜んでっ!
(カウンター席では、名物・鶏すきやきの提供が出来ないのだそう。
ワタシ、それでもいいんです。)
先ずは生ビールと「お通し」で1杯。
和え物の3点盛り。この時点で期待度MAX。

ビールをやっつけ、日本酒を。
そして、魚と鶏のお刺身をそれぞれお願いしました
宮崎獲れの「かつお刺身」と、

「塩麹むねたたき」。
すこぶる鮮度の良さを感じさせてくれるカツオ。
もっちもちで、身がピピッっとしまってます!
レモンを軽く搾ってワサビ醤油で。薬味要らずのすごいヤツ。
鶏むね肉も、ほんとピンクでしっとり。
トリ臭さって言うんですか?そういうのが全くありませんっ。
淡白な味わいの中に、美味しい余韻が漂います♪
メチャ美味し。

長野県佐久市にある「成田山 薬師寺」であります。
前回の「伴野城跡」のすぐ近くデス。


正面にある、この堂々たる門は、なんと!
「龍岡城 五稜郭」の東通用門が移築されたものなのだそうです。
すごーいっ。
五稜郭と言えば、函館(箱館)が有名ですが、
佐久にもあるんですねー↓
○ 最後のお城です。 佐久市★龍岡城五稜郭

というわけで、実は今日、こちらのお寺にいらっしゃる
「ぴんころ地蔵」さんにお会いしに来たのです★
=== 案内板より ===
長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)
信州佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として
知られています。

なんとも恐ろしい名前の古墳があります。
「鬼の窟(おにのいわや)古墳」。
コノハナサクヤヒメを嫁にと願う鬼が、姫の父、オオヤマツミノカミから
一晩で岩屋をつくるように言われ、完成させたと伝えられています。
古墳の入口から玄室までの天井のところに大きなすき間があり、
オオヤマツミノカミが石を1枚抜き取った跡とも云われます。
墳丘の周りには、外堤と二重の堀がある、ちょっとカッコイイ形の古墳。
この形は、朝鮮半島や中国を源流とする新形式の古墳なのだそうです♪
=== 案内より ===
鬼の窟古墳
鬼の窟古墳(206号墳)は、外堤と二重の周溝を有する
直径37m、高さ7.3mの円墳で、二段築成の墳丘には葺石はありません。

古墳群で唯一の開口した横穴式石室を持ち、
巨石を積み上げた石室や羨道からは、木棺に使用されたと考えられる
鉄釘や、馬具、須恵器(スエキ)、土師器(ハジキ)などが出土し、
3回以上の埋葬が行われたと考えられます。

鬼の窟古墳は、西都原古墳群の最後の首長墓と考えられます。
古墳の名前は、木花開邪姫(コノハナサクヤヒメ)に恋した鬼が、
一晩のうちに窟(石室)を作ったという伝説に由来しています。
云々。。。

=== 案内板より ===
口明塚古墳(くちあけづかこふん)
この古墳は、クチア塚古墳とも呼ばれ、直径約45m、
三段築成の円墳で、周囲には幅約8mの周溝が巡ります。
墳丘二段目斜面には山石と河原石からなる葺石が施され、
埴輪も並べられていたようです。

内部主体には山石の巨石を積み上げた横穴式石室で、南向きに開口しています。
羨道(せんどう・玄室に至る道)は失われていましたが、
両袖式で、推定全長8.7m、玄室(遺体を葬った部屋)の長さ約5.4m、
最大幅約2.7m、天井高約2.5mで、左右の側壁は持ち送りが
きつく造られています。
発掘調査の結果、石室内部は後世に撹乱され、
副葬品は出土しませんでした。

↑「発掘調査時の周溝及び葺石出土状況」。
山中や山麓に小規模な円墳が多い毛野地区の古墳の中で、
この古墳は平地にあり、常見古墳群の中の正善寺古墳(前方後円墳 103m)、
海老塚古墳(円墳 53m)についで規模が大きく、これらの古墳とともに、
6世紀末頃の当地方における首長の墓と推定されます。