
佐野市駅南口、ロータリーから歩いて数分。
伊賀町にある「孫太郎神社」にやって参りました。
こじんまりとした小さな神社さんですが、
その歴史はとても深そうです。。。
=== 案内板より ===
伊賀町鎮守 孫太郎神社縁起
通称「孫太郎様」として親しまれているこの神社は、今を去る千六十有余年の昔に
創建されたといわれています。
天慶の乱(938~940)に平将門を討った田原藤太秀郷により、天命の春日ノ岡
(現在の城山公園)に建てられた寺の守護神として祀られました。
しかし、寺も神社も保元・平治の乱(1156~1159)に兵火に遭い、
荒廃してしまいました。その後、文永年間(1262~1272)に寺は俊海上人によって
再興され、同じ時期に神社もまた修復されましたが、その再建に力を尽くしたのが
孫太郎と称していた秀郷八代の子孫に当たる足利家綱でした。

里人達は、それを大変に徳としまして、それから後神社の名を「孫太郎明神」と
誰いうとなく呼びならわし、いよいよ崇敬の念を篤くしたとされています。
尚、異説として鎌倉時代の武将・佐野孫太郎義綱が讒言(ざんげん)にあって、
領地をすべて没収されるという悲運に遭いましたが、
稲荷社に自身の無実が晴れることを懸命に祈願したところ、
その甲斐あって疑いが晴れ、無事に領地を取り戻すことが叶いました。
その謝恩の念を込めてそれまで無名であった稲荷社を春日ノ岡に「孫太郎神社」として
お祀りをしたのがゆえんであるという故事も伝わっています。
![第100回足利花火大会。[足利市]](https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/2014-matsuriashikaga.jpg)
「第100回足利花火大会」。
明治36年(1903)に始まってから今年でなんと111年!
第100回目を迎える足利の花火大会です!
すごいですねー、100回目ですょ、100回!
今年は100回を記念して「日本の名玉大玉花火」や「ワイドスターマイン」など、
2万発の花火が打ち上げられるそうです★
8月2日(土)の夜7時打上開始。
さぁ、みんなで行ってみよーっ。
100回目!
詳しくはこちらから。
◇ 足利商工会議所ホームページ http://www.ashikaga.info/
去年の足利花火大会はこちらから。
○ 足利花火大会 2013。
【第100回 足利花火大会】
@栃木県足利市伊勢南町

2014年もいよいよ「桐生八木節まつり」の季節がやって参りました♪
「みこし宵の出御(祇園)」は前日の7月31日(木)20:00~。
今年は美和神社~本町5丁目へ。
桐生人のお祭りにかける情熱はハンパないぞっ!
第51回八木節まつりは、
8月1日(金)、2日(土)、3日(日)の開催!
他にも市内各所でいろいろなイベントが催されますョ。
さぁ、皆で行ってみよーっ!
詳しくはこちらから。
◇ 桐生八木節まつり2014 http://kiryu-maturi.net/
以前の記事はこちらから。
○ 桐生八木節まつり、みこし宵の出御 2013。 [桐生市]
【桐生八木節まつり】
@群馬県桐生市本町5丁目

ちょっと見過ごしてしまいそうな道路沿い。
案内板が目にとまり寄ってみました。
「大和神社(行者堂)」。
小さなお社ですが、なかなか古い云われがありました♪

=== 案内板より ===
大和神社(行者堂)案内
祭神 役行者 疫病除け・子育ての神
もと長福寺の境内にあったもので、役行者(えんのぎょうじゃ)の像を安置する。
役行者は役君小角・役小角・役の優婆塞・神変大菩薩などとも呼ばれ、
奈良時代初期の山岳呪術者で、修験道の祖とされる。
僧衣をまとい、頭巾をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、
足には一本歯の高下駄をはき、左右には前鬼・後鬼という二体の鬼を従者として伴う。

寛平年間、大和から来た僧が、この像を背負って長福寺に入ったという。
その後文化12年(1815)、徳川から発した大火災で長福寺は全焼し、
この像も半焼となったものを火中から搬出した。
そこで村民相談の結果、新たに同じ像一体を彫刻させ、半焼の古い像は
御隠居様と呼んで、別に厨子に保存し、現在にいたっている。
=== 案内板より ===
縁切寺満徳寺
江戸時代においては、一度他家へ嫁した上は、その夫や家人と
不和を生じるなどして生家へ戻っても、夫方の離縁状を持たなければ、
再婚することが出来ないという規則があった。その時代に、弱い女性を護り、
離縁の目的を貫かせた寺として有名な所が日本に二つあった。
鎌倉の東慶寺と徳川の満徳寺がそれである。
徳川郷は徳川氏発祥の地として、江戸時代には幕府から租税課税の免除、
あるいは守護使不入の地として、特別の取り扱いを受けていた。

満徳寺は、徳川氏の初代義季の娘・浄念尼が開いた時宗の尼寺である。
代々の住職は新田の一族から出たというゆかりによって、天正19年(1591)
家康は寺領百石を寄進して、当時衰微していた寺を復興させた。
次いで大阪落城の後、豊臣秀頼の妻であった秀忠の娘・千姫を入寺させ
豊臣家との縁を切った。そして、本多家(忠刻)へ再嫁させたのであるが、
実は、千姫の身がわりとして侍女の刑部の局が入寺し、名を俊澄と改めて
住職になったといわれる。
以来、特に幕府から優遇を受けるようになった。寛永12年(1635)三代将軍・家光の時
寺を再建し、以後将軍家の位牌所として修繕費等はすべて幕府の支弁によった。
このように徳川幕府を背景として、寺法は権威を持ち
縁切寺としての機能を強く発揮することが出来たのである。
縁切寺満徳寺
江戸時代においては、一度他家へ嫁した上は、その夫や家人と
不和を生じるなどして生家へ戻っても、夫方の離縁状を持たなければ、
再婚することが出来ないという規則があった。その時代に、弱い女性を護り、
離縁の目的を貫かせた寺として有名な所が日本に二つあった。
鎌倉の東慶寺と徳川の満徳寺がそれである。
徳川郷は徳川氏発祥の地として、江戸時代には幕府から租税課税の免除、
あるいは守護使不入の地として、特別の取り扱いを受けていた。

満徳寺は、徳川氏の初代義季の娘・浄念尼が開いた時宗の尼寺である。
代々の住職は新田の一族から出たというゆかりによって、天正19年(1591)
家康は寺領百石を寄進して、当時衰微していた寺を復興させた。
次いで大阪落城の後、豊臣秀頼の妻であった秀忠の娘・千姫を入寺させ
豊臣家との縁を切った。そして、本多家(忠刻)へ再嫁させたのであるが、
実は、千姫の身がわりとして侍女の刑部の局が入寺し、名を俊澄と改めて
住職になったといわれる。
以来、特に幕府から優遇を受けるようになった。寛永12年(1635)三代将軍・家光の時
寺を再建し、以後将軍家の位牌所として修繕費等はすべて幕府の支弁によった。
このように徳川幕府を背景として、寺法は権威を持ち
縁切寺としての機能を強く発揮することが出来たのである。

畑の真ん中にポツンと立っている小さな神社さん。
「諏訪神社」です。
実はこの神社さんが立つこの場所は、新田氏一門であった、
大舘さんの館があったところだと伝えられています。
=== 案内板より ===
大館氏館跡
おおたち、の地名の初見は仁安3年(1168)
新田義重置文(国重文・長楽寺所蔵)であり、義重がその子、
らいおうごぜん(徳川義季)とその母に、所領を譲り渡す約束をした文書である。
それによると、おおたちは空閑の郷(新しく開墾された土地)で、
他の18郷とともに、らいおうごぜんやその母に譲渡される予定であった。
がしかしその後の事情で新田宗家に伝えられることになったものと思はれる。
義重四世の孫、家氏がここに住んで大館氏の祖となった。

館跡は耕地整理などによって、その遺構は失われたが、
古くから竈跡(かまあと)であったと伝えられる。
この地を中心に、御堀、御蔵、鍛冶屋、 馬場などの小字名が残り、往時を偲ばせる。

太田市にある「尚純萩公園」です。
この公園は、岩松尚純夫婦のお墓を復元整備したものです。
=== 案内板より ===
岩松尚純夫婦の墓
この史蹟は、治部大輔岩松尚純(ひさずみ)と夫人秋吟尼(しゅうぎんに)の墓所である。
墓はいずれも五輪塔で、一辺が約4メートル四方の上壇上に立てられているが、
欠損が著しく後補されている。

地輪に刻まれている銘文は次の通りである。
貞松院殿 尚純君塚 永正八未年 十月十五日
秋吟 尼君 明應八未 八月二十六日
善福寺 施主
尚純は、1461(寛正2)年に金山城主岩松家純の嫡子明純と
幕府政所代蜷川新右衛門(にながわしんうえもん、智蘊うん・ちうん)
の娘との間に生まれた。
1494(明応3)年に家純の跡を継ぎ城主となったが、
翌年、権臣横瀬氏との抗争に敗れ、家督を嫡男夜叉王丸(昌純)
に譲り岩松に隠居した。
戦国武将の座を捨てた尚純は、静喜庵と号し
その生涯を連歌の世界に生きたのである。
尚純の連歌は早くから世に表われ、奇しくも城主を追われた
明応4年成立の「新選莬玖波集」に九句も選ばれている。

=== 案内板より ===
岩松館跡
新田・足利氏の祖源義国は、この地岩松(当時は、いぬま)に居住し、
現在の青蓮寺境内を中心にしたこの区域がその跡であり、
その子新田義重もここに居住し、南方に岩清水八幡宮を勧請したと伝えられる。
正木文書(群馬県史資料編)によれば建保3年(1215)、
鎌倉幕府は新田義重の嫡男義兼の譲状に基づき、
その妻である義兼後家(新田尼)を岩松、下今居、田中郷の地頭職に任じ、
その後貞応3年(1224)、新田尼はその孫時兼にやしき岩松郷を譲渡し、
2年後の嘉禄2年(1226)、鎌倉幕府は時兼を岩松郷の地頭職に任じたとある。
また源義国の孫足利矢田判官義清が、平家追討に出陣するにあたり
寿永2年(1183)、山城国山背野中西寺に祖父義国等の供養のため奉納した
大般若経の奥書に、上野国新田住式部太夫加賀介従五位下義国とある。