
義経
~薄墨の笛の調べにのせて~
人間の寂寥への共感と救いを求める祈りの心を、薄墨の笛に託す。
笛は天と地を結び、時を超え、義経の息を届け、人々の心を鎮める。
~リーフレットより~
そして、ウィキペディアを見ていたら
こんな紹介が出ていた。
す、すごいっ。
=== ウィキペディアより ===
薄墨の笛
源義経が牛若丸と呼ばれていた頃から愛用していたとされる龍笛。
平安時代末期に義経により鉄舟寺の前進である久能寺に寄進された。
昭和52年に静岡市指定文化財に登録されている。通常笛は公開されていないが、
清水市や笛の音色に魅せられた人々による基金によって
1998年に「平成の補修」と呼ばれる補修がなされた後、義経の供養、
楽器としての笛の保全などを目的として、鉄舟寺他、
各地で演奏会が開催されている。
毎回演奏は日本を代表する笛奏者・赤尾三千子に託されている。
云々。。。
- 横笛 赤尾三千子の世界 「義経」 -
日 時/2015年5月27日(水) 開演19:00
日 時/2015年5月28日(木) 開演14:00
会 場/日本橋公会堂
出 演/横笛 赤尾三千子
出 演/和琴 小野貴嗣
出 演/舞琴 佐藤健三
出 演/琵琶 田中之雄
出 演/太鼓 石坂亥士
チケット/全席指定 4000円
チケット販売/チケットぴあ、e+、他
石坂亥士さんのブログはこちらから。
○ Dragontone
【日本橋公会堂】
@東京都中央区日本橋蛎殻町1-31-1 4F

事前にチェックしていた史跡です。
「中須東原遺跡」。
全国でも珍しい港町の遺跡です★
先に見学している地元の方がいらっしゃいました。
in 島根県益田市。
=== 案内板より ===
国史跡 中須東原遺跡
中須東原遺跡は、益田川の河口域で発見された中世の港湾遺跡です。
発掘調査によって、礫を敷き詰めた舟着場(荷揚げ場)跡や、砂利敷及び
溝状の道路で区画された街区など港町を構成する遺構が
良好な状態で発見されました。周辺に残る砂丘等の景観などもあわさって、
全国的にも稀な中世港湾集落の様相をよく留め、当時の姿を今に伝える
貴重な遺跡として、国の史跡に指定されました。
益田氏の勢力伸長と連動するように最盛期を迎える中須の湊町については、
「益田家文書」などの文献資料からの検討も加わり、海洋領主的な性格を持つ
益田氏の交易・流通実態の解明が進められています。
![染羽天石勝神社。[益田市]](https://blog-imgs-71-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/amenoiwa-1.jpg)
益田市にある延喜式内社、
「染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつ)」にやって参りました。
この地を開いた春日族が、磐神を祀ったのが始まりと云われる古社です。
「手水舎」でお清めし、ささ、参りましょう。
![染羽天石勝神社。[益田市]](https://blog-imgs-71-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/amenoiwa-2.jpg)
=== 案内板より ===
染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)本殿
染羽天石勝神社は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩を石神とした
自然崇拝を起源とし、神亀2年(725)に天石勝命を祭神として創建されました。
『延書式』に美濃郡五座のひとつとしてその名がみえ、
後に滝蔵権現と呼ばれるようになりました。
承平元年(931)に社殿西側の高台に別当寺の勝達寺を建立し、
中世には益田氏の庇を受けて発展しました。
明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、
神社も名を染羽天石勝神社と改めました。
なお、勝達寺の本尊であった不動明王坐像は鎌倉の極楽寺に現存し、
国の重要文化財に指定されています。
![染羽天石勝神社。[益田市]](https://blog-imgs-71-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/amenoiwa-3.jpg)
本殿は、天正9年(1581)に火災で焼失しましたが、
益田藤兼・元祥親子により再建されました。
その後、江戸時代に修理され、昭和12年に解体修理、
昭和39年及び平成10年・11年に屋根の葺き替え工事が行われています。
本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(もや)の前に
奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。
このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股や
手挟に見られる桃山時代の特色から、昭和4年に国宝となり、戦後、
文化財保護法の制定に伴い、改めて重要文化財に指定されました。
云々。。。

益田市には、なんとっ、
雪舟さんの作られた庭園が2つもあるんですっ。
一つは前回の医光寺、そしてもう一つはこちらの「萬福寺」です。
=== 案内板より ===
萬福寺本堂(国指定重要文化財)
応安7年(1374)建立
益田七尾城11代城主、益田兼見(ますだかねはる)公により建立された。
寺領31石を与えられ、益田家の香華院(菩提寺)とされた。
鎌倉様式。七間四面、九重造りの単層建築である。
云々。。。

===
雪舟(せっしゅう) (1420~1506)
日本水墨画の完成者で画聖ともたたえられる。
ウィーンの世界平和評議会で「世界十大文化人」に選ばれた
唯一の日本人である。
「四季山水図巻(山水長巻)」「秋冬山水図」「破墨(はぼく)山水図」
「天橋立図」「山水図」「恵可断臂図(えかだんぴず)」が国宝に指定されている。
また、国指定されている庭園には当寺のほかに、
常栄寺(山口市)医光寺(益田市)亀石坊(福岡県)常徳寺(山口県)の石庭がある。
云々。。。


===
萬福寺庭園(国指定史跡名勝) 室町時代
雪舟禅師によって作られた寺院様式の庭園である。
須弥山世界(仏教の世界観)を象徴した石庭で、曼荼羅
(悟りの境地を表現したもの)さえ連想させる。
雪舟の墨絵に似通う趣も感じられる。
云々。。。
う~ん、綺麗な庭です。。。

益田市の「医光寺」です。
雪舟さんが作られたという、
国史跡にも指定されている庭園が拝見できるということでやって参りました。
先ずは、正面に建つ「総門」であります。

=== 案内板より ===
医光寺総門
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、
両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、
益田氏20代元祥の長門国須佐への移住に伴い
廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える
七尾城山の中央の谷あいと考えられています。
南北朝時代には当時の大手口「北尾崎木戸」で三隅方との合戦があったことが
益田家文書に残っています。

17世紀後半に屋根を改めたといわれ、
前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成4年度に
本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。

構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、
戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
云々。。。

~鴨山の磐根し枕ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらむ~
柿本人麿さんの歌が刻まれた、
高津柿本神社の境内にある石碑です。

=== 案内板より ===
鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況
昭和52年7月、梅原猛先生、考古学、地質学の先生等は、
人麿公終焉の地である鴨島を科学的に立証するため
10日間の海底遺跡調査を試みられた。
海底調査資料より抜粋
●浅い所の水深は4米で、5~6米の所がかなり広がっている。
陸側で8米、沖へ向う側12米、東西500米、南北400米位で、面積は大体20万平方米。
●河床と海岸にできるポット・ホール(井戸状の丸い穴)が、
水深8米の同じ深さの所に数ヶ所できている。普通渚にできるものであるから、
場合によっては沈降したのかも知れない。
●拳位の大きさの礫を揚げたうちに、三角形をした、三稜石というものが2個あった。
三角形の礫は卓越風の強い場所で飛砂との摩擦によってできるもので珍しい。

●2米四方の真四角石が集まっている所、或いは丸い石が集まっている所、
或いは階段ではなからうかと思われる石が並んでいる所、
或いは敷き詰められたようにずっと石が並んでいる所、
柱や石垣や道のように見える所等、複雑異常の風景である。
調査終了後、現地座談会の締括りに於て「やはりここに鴨島はあるんだ
というぬき難い確信がある」と述べられた。 以上資料より
台石に置いてある石(高さ60cm横85cm厚55cm)は、
海底調査の際、暗礁より引揚げられたもので、もしかすると
石段に使用されていたものではあるまいかとの説である。
云々。。。

夕べのお酒もなんのその。
天気に恵まれたこの日。まさに神社日和★
「高津柿本神社」にやって参りました。
飛鳥時代の歌人、柿本人麿さんをお祀りしている神社さんです。
飛鳥時代とは、古墳時代と奈良時代の間ですから、
ずいぶん昔の方なんですねー。

参道、石段正面の「楼門」。
=== 案内板より ===
柿本神社楼門由緒
歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に
宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り
秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。
万寿三年(1026)5月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。
人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。
石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。


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現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝9年(1681)、
高角山に本殿、拝殿、楼門を建立したことから始まる。
楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。
これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。


この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行3間、
梁間1.5間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。
上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、
組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な
折衷様式の門である。

(楼門の内側には、いろいろな資料が展示されていて
ちょっとした博物館のよう。。。)
前回の大改修は明治24年(1891)に行われ、
今回の平成17年(2005)の改修は、114年ぶりの大改修となる。
長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、
屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。
築後324年を経て、21世紀の現代に再生された。
云々。。。

柿本神社の境内にあった「八幡宮」。




