![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-4.jpg)
宝物館、真田邸に続いてはこちら、
「文武学校」です。
=== 案内板より ===
史跡 旧文武学校
この学校は、松代藩の藩校として、第8代藩主真田幸貫が
水戸の弘道館に範をとって建設を計画し、第9代幸教がこれを引きついで
嘉永6年に完成、安政2年(1855)に開校したもので、
明治に入り兵制士官学校を併設しましたが、明治4年(1871)廃藩にともない
閉校になりました。
![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-1.jpg)
この学校での教育は、藩士に対し文学(学問)と武道の両道をめざし、
漢学、国史、剣術、槍術、柔術、弓術をはじめ、特に西洋医学、
西洋砲術を教育したところに時代を先取する気風がうかがえ、
後に幾多の人材を輩出しています。
![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-5s.jpg)
![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-6s.jpg)
明治6年から松代学校々舎などに使用され、正庁(文学所、御役所)、東序、西序、
剣術所、柔術所、弓術所、文庫蔵、番所、門及び柚塀等の建物が残っており、
昭和48年より5か年をかけて保存修理と、腰掛(供侍)土塀などを復元施工したもので、
全国的にも藩校当時の姿を残す一つであります。
云々。。。
![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-2.jpg)
===
弓術所
射芸を指南する道場で、開校時の日割表によると、
射芸は8人の師範が教授にあたっている。2流4派7師範家が
担当していたといわれる。
文久3年(1863)に藩から命令がでて、弓術の授業も柔術とともに行われなくなった。
松代学校時代は、はじめ教室にあてられていたが、その後理科室、
第1音楽室などに使用された。
矢場は、平成8年に絵図面をもとに復元されたものである。
云々。。。
![旧文武学校と白井家表門。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadabunbu-3.jpg)
===
剣術所
剣術を指南する道場で、日割により剣術各流派を学ぶことができた。
剣術は、槍術とともに選択科目とされ、どちらかを習得できるよう
義務づけられていた。
松代学校時代は、初め教室にあてられ、その後は東体操場、手工室兼図画室、
工作室などに使用されてきた。
この建物の天井組みは、大きな寺・城などのように、和小屋組みの四重梁となっており、
屋根の荷重を支えるために太い梁を組み合わせてある。
云々。。。
![旧樋口家住宅。[長野県長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadahiguchi-1.jpg)
![旧樋口家住宅。[長野県長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadahiguchi-2.jpg)
=== 案内板より ===
旧樋口家住宅(主屋・土蔵・長屋)
樋口家は江戸時代、真田藩士として目付役などを務め、
江戸時代末期には禄高230石の上級武士の家であった。
![旧樋口家住宅。[長野県長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sanadahiguchi-3.jpg)
その歴史は樋口家文書「樋口家譜略伝」(明治14年)によると、
武田家の家臣であったと伝えられている。
当初住んでいた場所は不明であるが、樋口家文書から、明和2年(1765)
6代樋口角兵衛邦蕃の時に現在地へ移り、近年まで続いていたことがわかる。
主屋は木造平屋建、寄棟造、茅葺。
文久2年(1862)に修理されたことが判明しており、少なくともそれ以前の
建物であることがわかる。
桁行14.53メートル、梁間7.26メートル、延べ床面積139.91平方メートル。
![新御殿(真田邸)。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1510sanada-2-1.jpg)
真田宝物館より次に向かうのは正面、
「真田邸」であります♪
正式名称は「松代城跡附新御殿跡」。
ここから見るとお寺さんみたいですねー。
![新御殿(真田邸)。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1510sanada-2-2s.jpg)
![新御殿(真田邸)。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1510sanada-2-3s.jpg)
(写真はクリックで大きくなります。)
建物の周りをめぐる真っ白な塀と、右の受付。
![新御殿(真田邸)。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1510sanada-2-4.jpg)
こちらが真田邸の入口となります。
神社さんみたいだ。
=== 案内板より ===
史跡 新御殿(真田邸)
新御殿は、幕末の元治元年(1864)、松代藩9代藩主・真田幸教(ゆきのり)
によって建てられました。当初は幸教の義母・貞松陰の住居でしたが、
明治以降は真田家の私的住居となったことから、「真田邸」とも呼ばれています。
![新御殿(真田邸)。[長野市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1510sanada-2-5.jpg)
御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影を
よく残しています。ほかにも真田家伝来の大名道具が納められていた
複数の土蔵や、表門、往時の姿を残す庭園など、
簡素ながらも全体が残っている「御殿建築」は、全国にもほとんど例がなく、
非常に貴重なものです。
云々。。。

「中之条ビエンナーレ2015」。
また来てしまいました(汗、、、
伊参スタジオの手前にある「JAあがつま倉庫」です。
こちらは倉庫内の展示作品。
縦目のグロリアかな?

こちらは野外の作品。

もう一つは、前回の2013年からあった作品。
年季が入りましたねー。
○ 中之条ビエンナーレ 2013、Vol.5。[JAあがつま倉庫]

あがつま倉庫の隣にある「伊参古民家」。
![生品神社。ikushina-jinja [太田市]](https://blog-imgs-82-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ikushina1509-1.jpg)
「生品神社」です。
in 太田市藪塚町。
![生品神社。ikushina-jinja [太田市]](https://blog-imgs-82-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ikushina1509-3.jpg)
一つ目の「鳥居」のすぐ右手にある覆屋。
こちらに保存されているのが縄文時代の住居跡、
「生品神社敷石住居跡」です!
以前、間違って、新田義貞さんが挙兵したと伝わる
別の生品神社に探しに行っちゃったんですよねー(汗、、、
![生品神社。ikushina-jinja [太田市]](https://blog-imgs-82-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ikushina1509-4.jpg)
=== 案内板より ===
生品神社敷石住居跡
この住居跡は、昭和60年8月に、調査中に見つかったものです。
赤褐色の安山岩系の石は、この辺では見つかっていません。
住居は中央の炉を中心に六角形に、石を敷いて造られています。
(炉の北側の石を中心に半径1.8mの円)、南側にある小さな炉状のものには
火を使った跡がなく、入口に造られていることから魔除けのようなものであろう。
このような住居跡は、この付近ではめずらしいもので、出土遺物等から、
縄文時代後期末(4000年程前)のものと考えられる。
なお境内には土器片が散乱しており、縄文時代の集落があったようです。
云々。。。
![生品神社。ikushina-jinja [太田市]](https://blog-imgs-82-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ikushina1509-2s.jpg)
![生品神社。ikushina-jinja [太田市]](https://blog-imgs-82-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ikushina1509-5s.jpg)
先、行きましょう。
こちらは二つ目の鳥居と、
人生路の塚?〝しあわせ〟と書かれた額があります。