
「古地図マルチクロス」。
飲み友のAちゃんからいただきました♪
クロスにプリントされているのは〝江戸御見附略図〟。
見附ってなんですのん?。。。
=== ウィキペディアより ===
江戸城三十六見附
江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)とは、
江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたもの。
見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた
見張り所に由来する言葉で、
城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、
とくに、枡形をもつ城門の監視場所を指した。
俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、
現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。
云々。。。
見張る場所のことなんですねぇー。
なるほど。。。
![洋風料理 デリス。[足利市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1712deris-1.jpg)
ランチタイムを利用して、ちょっとした打ち合わせ。
「洋風料理 デリス」にお邪魔しております。
11:30のオープンと同時に入店 (=゚ω゚)ノ
一番奥のテーブル席に陣取りました。
in 足利市。
![洋風料理 デリス。[足利市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1712deris-2.jpg)
ランチのセットは、
メイン+、ミニサラダ、スープ、ライス(パン)、
ドリンクが一緒になったお得なメニュー。
こちらは「ミニサラダ」です。
![洋風料理 デリス。[足利市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1712deris-3.jpg)
実際はなんだか、打ち合わせと称しての昼飲みなのでしょうか?(笑
話の分かるYさんは、ワインでもたのみましょうか、と♪
そしたらオツマミもお願いしましょうョ?(笑
「フランス産 エスカルゴ」です。
ほんのりとしたガーリックバターの風味。
バケットにのせて。
マイマイなんだけど、まるで魚貝のよう♪
ワインが進んでしまいます(汗、、、
![井原鑓溝遺跡推定地。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yarimizo-1.jpg)
「三雲南小路遺跡」のすぐ南。
「井原鑓溝やりみぞ遺跡推定地」があります。
=== 案内板より ===
井原鑓溝遺跡推定地
糸島市井原字ヤリミゾ・三雲字ヤリミゾ地内
井原鑓溝遺跡は江戸時代の天明年間(1781~1788年)に甕棺が
発見された遺跡です。
甕棺は当時の三雲村との境界に近い井原村の鑓溝で発見されたとされ、
その経緯は福岡藩士の青柳種信が書き記した「柳園古器略考」に
伝聞記として記されています。
![井原鑓溝遺跡推定地。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yarimizo-2.jpg)
青柳種信の肖像画
「日照り続きであったある日のこと、井原村の百姓であった次市が
田に水を引き入れようと水路の土手をつついたところ、
その一角が崩れて大きな壺が顔を出し、中から赤色の顔料(水銀朱か?)
とともに20面を超える銅鏡や鎧のような鉄板などが出土した。」
![三雲小路遺跡。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/mikumoshoji-5.jpg)
内容の濃い遺跡が、良くひと所に集中してあるものだなぁ、
と感心させられます。
平原遺跡に続いてやって参りました「三雲南小路遺跡」です。
こんもりとした小山があるとかではなく、
ここにありましたョ、的な平面復元です。
=== 案内板より ===
三雲南小路遺跡
- 国内最大級の弥生王墓 -
三雲南小路遺跡は、弥生時代中期末(約2000年前)の伊都国王の墓で、
墓の周囲に幅3~4m・深さ0.5~0.7mの溝で、東西32m・南北31mの
方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓です。
江戸時代(1822年)に発見された時には甕棺の上に
1.5mほどの盛土があったとされ墳丘があったと推定されます。
![三雲小路遺跡。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/mikumoshoji-3.jpg)
墳墓の中央部には2基の長特大の合わせ口甕棺(全長2.5mほど)があって、
1号甕棺から35面、2号甕棺から22面、合わせて57面にのぼる前漢鏡、
青銅製武器、金銅製四葉座飾り金具、ガラス製壁、装身具など
豪華な副葬品が出土しました。
![平原遺跡。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hirabaruiseki-6.jpg)
「平原遺跡」です、in 糸島市。
平原と書いて〝hirabaru〟と読みます。
来てみて、案内板を拝見して驚愕の文字がっ(汗、、、
八咫鏡、天照大神。。。!
帰ってきてから、も1度調べてみてさらに驚く(汗、、、
卑弥呼の墓。。。!
そんな素敵な遺跡でありました (=゚ω゚)ノ
=== 案内板より ===
国指定史跡 曽根遺跡群 平原遺跡
1965(昭和40)年と1988(昭和63)~1999(平成11)年に発掘調査され、
弥生時代中期初頭の竪穴住居跡7棟、壺棺墓1基・木棺墓4基、
弥生時代後期の墳丘墓3基・大柱遺構3基・特殊建物跡1棟・
古墳時代前期の円墳2基・土壙墓12基・時期不詳の掘立柱建物3棟
などが発見された。
![平原遺跡。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hirabaruiseki-1.jpg)
このうち、弥生時代終末期の1号墳は14m×10.5mの長方形状の平面形で、
幅1.5m~3.0mの周溝で区画し、排水溝を持った墓である。
主体部である広さ4.5m×3.5mの墓壙中央には、長さ3.0m、幅0.7m~0.9mの
割竹形の木棺が納められていた。
棺の内外から銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点以上・連玉886点・
丸玉約500点・小玉482点、メノウ管玉12点、ガラス耳璫2点、水銀朱、
鉄製素環頭大刀1本などが出土した。
![平原遺跡。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hirabaruiseki-5.jpg)
特に直径46.5cmの古代で世界最大の超大型内行花文鏡5面を含む
銅鏡などの豊富な副葬品から、1号墳は巫女的な性格をもった
伊都国の女王墓と推定される。
なお、超大型内行花文鏡を八咫鏡として、「日本書紀」などにみられる
大日孁貴(おおひるめのむち)の墓と考える原田大六先生の説がある。
云々。。。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-1.jpg)
埼玉県羽生市です。
「鷲宮神社」にやって参りました。
in 下君村。
こちらは東側にあった朱色をした「鳥居」。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-2.jpg)
南側に回ると白い「鳥居」があり、
参道、社殿と、真っすぐの配置になります。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-3.jpg)
参道、すぐ右手に「弁財天」。
側に藤棚があり、案内板がありました★
=== 案内板より ===
鷲宮神社と古藤の由来
鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。
このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。
池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、
明治17年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。
2142坪の境内地には、4個(他に1個出土している)の礎石があり、
社殿がたてられていたことを物語っています。
また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、
社殿の修理か造営が行われたものと思われます。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-4.jpg)
横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、
樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、
明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。
ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394~1427)で、
文明18年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた道興准向が村君の里を訪れ、
たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里
とよんでおります。
荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで
歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
云々。。。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-6.jpg)
藤棚を過ぎ、左に境内社の「浅間神社」。
![鷲宮神社。[埼玉県羽生市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/hanyuwashi-5.jpg)
そして正面に「鳥居」です。
![石ヶ崎支石墓。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ishigasakishisekibo-1.jpg)
田んぼの中に突如現れる雑木林。
古墳か何かかなぁ~と、怪しい雰囲気に誘われて。。。
近寄れば案内板が。
「石ヶ崎支石墓」でありますっ。
やっぱり。。。
![石ヶ崎支石墓。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ishigasakishisekibo-2.jpg)
=== 案内板より ===
石ヶ崎支石墓
この丘には、1949年(昭和24年)に原田大六氏らが発見、
発掘調査を行なった弥生時代の墳墓遺跡(石ヶ崎支石墓)がある。
遺跡の中で最も注目されたのは、墓群の最高所で発見された弥生時代前期
(2300年ほど前)の支石墓である。
支石墓とは、墓壙の上に数個の支石を配し、
その上に自然石をのせて標石とした墓であるが、石ヶ崎支石墓の上石は
差し渡し3mほどの花崗岩の板石を置いた大型支石墓であった。
地下の埋葬施設は組合せ式木棺と考えられる。
![三雲・井原遺跡と築山古墳。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/mikumoiwara-1.jpg)
=== 案内板より ===
三雲・井原遺跡 - 伊都国の王都 -
三雲・井原遺跡は、中国の歴史書「魏志」倭人伝に記された
弥生時代の国のひとつである「伊都国」の王都とされる遺跡です。
遺跡の面積は、瑞梅寺川と川原川に挟まれた約60㏊の三角地で、
その規模は弥生時代において国内最大級を誇ります。
遺跡の発見は、江戸時代の三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡の
両王墓の発見にさかのぼります。
本格的な発掘調査は1974年に開始され、
今日までに100か所を超えるトレンチ調査が行われました。
調査の結果、遺跡中央部に広がる大集落と、その南~北部には
集落を囲むような形で、甕棺墓や石棺墓などの墓域が展開し、
集落と墓域の間は数条の大溝によって区分されるなど、
しだいに王都の姿が浮かび上がってきました。
王都としての特徴は、広大な面積のほかに集落域から豊富に出土した
外来系遺物にみられます。
仲田地区や番上地区から出土した中国産の辰砂(しんしゃ)や中近東原産の
ファイアンス玉、朝鮮半島系の楽浪土器は中国、朝鮮半島との交流で繁栄した
「伊都国」の証といえます。
また、ヤリミゾ地区からは大量のガラス製装身具や銅鏡などが出土しており、
王に次ぐ有力者の墓と考えられています。
糸島地方を代表する貴重な文化遺産です。みんなで大切に保存しましょう。
云々。。。
「三雲・井原遺跡」。福岡県糸島市です。
畑の中を走る1本道の脇に建つ案内板。
1枚の案内といえども、ヒジョーに濃い内容が記されていますっ。
魅力的だっ。。。
![伊都国歴史博物館。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/itokoku-3.jpg)
福岡市から糸島市へひとっ走り。
「伊都国歴史博物館」にやって参りました★
たくさんの遺跡が残されている糸島市。
古代の国「伊都国 いとこく」もここにあったと云われています。
以前よりチェックしていた博物館ですっ、
キターッ★
![伊都国歴史博物館。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/itokoku-1.jpg)
エントランスの壁画。
〝国際交流都市・伊都国 ~ここに国があった~〟!
ヒジョーにシビれるキャッチコピーではありませんかっ!?
![伊都国歴史博物館。[福岡県糸島市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/itokoku-2.jpg)
=== 壁画より ===
『魏志倭人伝』に記されている『伊都国』の文字。
かつてこの地に、朝鮮半島や中国大陸と交易した
国際交流都市があったことを私たちに伝えています。
2千年の時を超えて蘇る伊都国。。。
その謎とロマンにあふれた国に、みなさんをご案内します。
云々。。。
館内の撮影はNG。
国宝指定の出土品も展示されていますから
そうなんでしょうネ。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-15.jpg)
前回に続いての「福岡城跡」です。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-16.jpg)
早起きは三文の徳♪
福岡の朝を独り占めっ!みたいな、
こんな綺麗な風景に出会えました (=゚ω゚)ノ
では、さっそく★
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-18.jpg)
=== 案内板より ===
本丸(表御門跡・祈念櫓)
二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。
表御門は大正7年(1918年)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)
に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。
また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。
これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、
棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。
この櫓は、大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、
北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。
そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。
大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、
軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは
著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、
福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。
1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。
福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、
現存しているのは本櫓のほか、国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など
数えるほどとなっています。
云々。。。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-19.jpg)
「御祈念櫓跡」。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-17.jpg)
「二の丸跡」。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-20.jpg)
「井戸跡」。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-2.jpg)
ホテルの目の前にはお城がありますから!
自然と朝早くに目が覚めます (=゚ω゚)ノ
日の出とともにGO→
「福岡城跡」でありますっ。
=== 案内板より ===
下之橋御門
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、
慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋・下之橋・追廻橋にそれぞれあり、
このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-4.jpg)
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、
明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、
同20年に二層櫓門として復原しました。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-1.jpg)
「明治時代初期頃の上之橋御門」
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献資料などにより、
その規模、北側の下屋の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが
明らかになりました。
また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や
本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で
検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと
判断された本案を採用しました。
云々。。。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-3.jpg)
===
(伝)潮見櫓
福岡城に50近くあった櫓の1つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、
昭和31年(1956)に再移築されました。
潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、
また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、
城内の別の櫓であると考えられています。
云々。。。
![福岡城跡。[福岡県福岡市]](https://blog-imgs-108-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/fukuokajo-5.jpg)
===
黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡
黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は、戦国時代の武将で、
筑前黒田藩の藩祖とされる。
はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、
竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、
中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、
同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。
如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ
筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、
如水もその晩年を福岡城で過ごした。
福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書
「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。
是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、
如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある
「三ノ丸御鷹屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。
云々。。。
早すぎて、まだ開いてませんっ(汗、、、