![かみつけの里博物館。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kamitsukehakubutsu-19-1.jpg)
八幡塚古墳を堪能した後は、
「かみつけの里博物館」へ♪
![かみつけの里博物館。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kamitsukehakubutsu-19-4.jpg)
![かみつけの里博物館。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kamitsukehakubutsu-19-5.jpg)
こちらの博物館には県内各地からの発掘遺物や、
パノラマなどの復元模型が展示されています。
=== 案内板より ===
模型は、高崎市の下芝遺跡群、諏訪西遺跡、西国分Ⅱ遺跡、
渋川市の中筋遺跡、黒井峯遺跡などの調査から諸要素を取り出して復元した
古墳時代の一般的なムラの姿である。
ムラには様々な形態があるが、ここでは竪穴住居1軒に
柵で囲まれた施設群が付属する形を基本単位とした。
柵の中には、祭祀場と畑、複数の平地建物
(住居・作業小屋・倉庫・家畜小屋)などがある。
こうした単位が集まり、道で結ばれムラとなっている。
ムラには共同の水場や大祭祀場があり、周りには畑が広がる。
畑地帯の範囲は予想以上に広く、ヒエ・アワ・キビ・ソバなどの雑穀、
菜・芋・根菜などの野菜が、稲と共に、王と民の経済を支えたようだ。
云々。。。
![かみつけの里博物館。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kamitsukehakubutsu-19-6.jpg)
「祭祀に使われた土器」。
![かみつけの里博物館。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kamitsukehakubutsu-19-7.jpg)
「住まいの中の道具類」。
![夏越の大祓 ~楽の記憶~。[桐生市*有鄰館酒蔵]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/1906gaishi-1.jpg)
6月30日は「夏越の大祓」。
季節になると神社で見かける茅の輪。この芽の輪を8の字にくぐって、
普段の生活でついてしまった穢れを取るというのが夏越の大祓。
そして桐生有鄰館で開催される石坂亥士さんのライブです。
今年もビックなゲストが登場致しますっ。
雅楽の篳篥(ひちりき)の演奏家・中村仁美さん★
亥士さんのブログの中に面白い記事があったのでちょっと抜粋。
~ 雅楽という、古からの音のエキスを現在にも伝えるスタイルの、
その中でも気合いの入っている楽器、篳篥と神楽太鼓での
夏越の大祓なのであります!!!
古の形態を継承している雅楽の世界に身を置きつつも、
ガツンと即興ができる方というのはまずいないのが、現実なのだが、
中村仁美さんは、何度かご一緒していて、セッションしても、とても楽しくて、
また、スリリングな即興ができる、稀な存在なのである。
前回、ご一緒した時には、仁美さんに呼んでいただいたのだったが、
アンコールがかかり、二人でやることになったのだったが、
いきなり「では、越天楽を!!!」と、本気なのか!?という無茶ぶりを
平然としてくる、気合いの入った方なのだ。
越天楽は、どうなったかと言えば、篳篥の古の旋律に、
あり得ないノリノリのリズムの応酬で答え、盛り上がったのだった。 ~
これは楽しみっ♪
さぁ、みんなで行ってみよーっ☆
「夏越の大祓 ~楽の記憶~」
日 時/2019年6月30日(日) 開場18:30、開演19:00
会 場/桐生市有鄰館 酒蔵
料 金/4000円(小学生以下無料/乳幼児可)
お問合せ/link.to.as@gmail.com/090-4965-9005(ストウ)
以前のライブはこちらから。
○ 立春大吉 2019 Gaishi Ishizaka Solo、にて。[桐生市*有鄰館煉瓦蔵]
○ 今、ここにある音。。。夏越の大祓にて。[桐生市*有鄰館酒蔵]
【桐生市 有鄰館 酒蔵】
@群馬県桐生市本町2-6-32
TEL/0277-46-4144
![保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/howadayawata-22-11.jpg)
高崎市にある「八幡塚古墳」です。
保渡田古墳群の中の1つ。
=== 案内板より ===
史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳
国指定史跡 保渡田古墳群とは
榛名山東南の麓、群馬県群馬町保渡田・井出にある3つの前方後円墳の総称。
いずれも墳丘の長さ100m級の大型古墳である。5世紀後半に、
二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで造られ、
この地に有力な豪族がいたことを示している。
![保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/howadayawata-22-1.jpg)
整備前の八幡塚古墳 昭和55年頃 南西より
![保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/howadayawata-22-2.jpg)
整備が進む八幡塚古墳 平成9年 北東より
![保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/howadayawata-22-3.jpg)
整備が進んだ八幡塚古墳 平成11年3月
八幡塚古墳の復元整備
かつて、この古墳は大きく削られていた。
そのため史跡公園の全体計画にあたり、この古墳に限って、
造られた時の姿に復元し、活用することが決定された。
5カ年らわたる発掘調査結果を基に、古墳に保存用の土を厚く盛って、
築造時の姿に復元整備した。
云々。。。
![保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/howadayawata-22-4.jpg)
今から1500年前につくられた八幡塚古墳
八幡塚古墳は、南東1kmにある三ツ寺Ⅰ遺跡(巨大な館)に住み、
榛名山東南麓・井野川流域を治めた豪族の墓である。
当時、群馬県地域(上毛野・かみつけの)は国内でも有力な地域であった。
八幡塚古墳の被葬者は、古墳の充実度からみて、
この頃、上毛野各地に勢力を持った豪族達の中でも
代表的な人物であったと考えられる。
![遠見山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/toomiyamakofun-6-1.jpg)
前橋市です。
王山古墳に続いてやって参りました、
「遠見山古墳」です。
![遠見山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/toomiyamakofun-6-2.jpg)
=== 案内板より ===
遠見山古墳
利根川右岸の総社町から大渡町にかけて広がる総社古墳群の中で
最も古い時期の古墳である。
墳丘の一部は削平されていることが判明したが、
周堀及び南西コーナーが確認された。
また、周堀の最下層からは、6世紀初頭の榛名二ツ岳火山灰層が確認され、
埴輪片も検出された。墳丘約70m、周堀まで含めると
全長100m以上の大型の前方後円墳であったと推定される。
![遠見山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/toomiyamakofun-6-3.jpg)
前方部より後円部を見る。
総社古墳群を築造した豪族は、ヤマト政権との深いつながりを持つ
有力豪族であったと推測されており、5世紀後半から急速に力をつけ、
この地域一帯を支配した豪族の勢力拡大過程や
総社古墳群の成立を解明する上で極めて重要な古墳である。
云々。。。
![王山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ooyamakofun-8-1.jpg)
前橋市にある王山公園です。
![王山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ooyamakofun-8-2.jpg)
こちらの公園にあるのが「王山古墳」です。
=== 案内板より ===
王山古墳推定復元図
6世紀代に作られた前方後円墳。
墳丘は多数の川原石で覆われており、
特に後円部の基壇上の墳丘は全て川原石で構成されている。
「積石塚」と言われるもので全国的にも珍しいものである。
![王山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ooyamakofun-8-3.jpg)
主体部は後円部に両袖型の横穴式石室が存在する。
石室全長16.4m、玄室長4.40m、羨道長12mあり、
石室全長は県内最長の規模を有している。
![王山古墳。[前橋市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ooyamakofun-8-4.jpg)
墳丘からは円筒埴輪及び太刀などの形象埴輪が出土しているが、
石室はすでに盗掘を受けており、わずかに歯2本、
辻金具の破片数個が出土している。
群馬県の初期横穴式古墳の様相を知る上にも、
さらには古墳の構築技法を知る上からも貴重である。
云々。。。
![若田原遺跡群。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yawatareien-12-6.jpg)
高崎市です。
剣崎西長瀞西古墳に続いてやって参りました、
「若田原遺跡群」です。
縄文時代の住居跡と古墳が3つありました。
霊園の中にある遺跡群であります。
=== 案内板より ===
若田原遺跡群
八幡霊園は昭和44年に造成が開始され今に至っている。
このうち昭和45年から昭和47年にかけて発掘調査された遺跡は
縄文時代住居跡22、古墳5、古墳時代の住居跡2、奈良時代住居跡1等であった。
これにより、この地区には縄文時代中期(約4000年前)の拠点的大集落の存在と、
古墳時代には多数の古墳築造と住居跡が営まれていたことが明らかになった。
保存されている縄文時代住居跡3、古墳3、古墳時代住居跡1の遺跡群を
若田原遺跡群とよんでいる。
このうち、縄文時代の敷石住居跡と、若田大塚・楢ノ木塚古墳・峯林古墳は
当時の状態をとどめているが、他は土をかぶされて保存されている。
云々。。。
![若田原遺跡群。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yawatareien-12-1.jpg)
===
碓氷川と烏川にはさまれた台地上には、多数の古墳が分布している。
若田大塚古墳は、これらの中で最も大きな円墳の1つであり、
直径は29.5メートル、高さは7.5メートルを計測する。
墳丘は基壇を持つ2段築成で葺石が見られ、
朝顔型埴輪を含む円筒埴輪列が巡っていた。
主体部は横穴式石室のように基壇上に構築されている。
石室の石積は自然石の乱積で、床には径5~8センチメートルの玉石が
厚さ15センチメートル程度に敷きつめられていた。
![若田原遺跡群。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yawatareien-12-2.jpg)
古墳の上部
明治15年地元より県へ発掘届が提出された。
発掘品目録には「槍1、銕片1、鏡1、蝋石19、鏃片23、鍔 8、鞘片1、刀折小片、
甲1、銕釣1」と記されている。
これらのうち、鉄製の矛は現存長42.7センチメートル、身幅4.4センチメートルで、
断面は菱形を呈する。
![若田原遺跡群。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yawatareien-12-5.jpg)
また、盗掘坑に残されていた鉄槍は現存長で22.3センチメートルあり、
その一部が銅製金張りの精巧な作りとなっている。
横矧板鋲留式短甲は前胴の高さ32.2センチメートル、
後胴の高さ43.8センチメートルである。
![若田原遺跡群。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/yawatareien-12-3.jpg)
古墳が築造された時期は、埴輪や副葬品の種類などから、
群馬県に横穴式石室が多く造られるようになった6世紀初頭であると考えられる。
云々。。。
![剣崎長瀞西古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kensakinagatoro-7-2.jpg)
高崎市です。
「物見塚古墳」に続いてやって参りました、
「剣崎長瀞西古墳」です。
=== 案内板より ===
剣崎長瀞西古墳
この古墳は八幡台地の北端に造られています。
この台地には、国指定史跡観音塚古墳(6世紀後半)や平塚古墳(5世紀後半)
などの前方後円墳や、群集墳と呼ばれる数多くの中小古墳が造られています。
![剣崎長瀞西古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kensakinagatoro-7-4.jpg)
古墳の南にある、現在の西部小学校敷地内からも、
7世紀代の横穴式石室を持つ円墳が発見されています。
また、古墳の東側の剣崎長瀞西遺跡では、円墳・方墳・積石塚を含む
5世紀代の群集墳と横穴式石室を持つ7世紀代の群集墳が計36基調査され、
金製垂飾付耳飾・韓式系土器・初期馬具り他、埴輪・土師器・須恵器などが
大量に出土しました。
![剣崎長瀞西古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kensakinagatoro-7-5.jpg)
墳丘および外部施設
墳丘は、周堀の底から葺石が葺かれており、墳丘側が高くなっているので、
この部分を見かけの1段目とすることができ、2段築造を意識して設計された
古墳であることがわかります。
1段目と2段目の間の平坦面には、円筒埴輪が巡っていました。
このテラス部分は、古墳の南側で広くなっている様子が確認されており、
墳形が円墳でなく、帆立貝式古墳になる可能性も考えられます。
![物見塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/monomizukakofun-6-1.jpg)
以前訪れた「観音塚古墳」の近くです。
高崎市にある「物見塚古墳」。
![物見塚古墳。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/monomizukakofun-6-2.jpg)
=== 案内板より ===
物見塚(休み塚)古墳
この一帯は、烏川と碓氷川に挟まれた丘陵台地になっており、
楢ノ木塚古墳や峯林古墳などで構成される、若田古墳群と呼ばれる
群集墳の中の1つであるこの古墳が物見塚古墳です。