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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

2020/051234567891011121314151617181920212223242526272829302020/07

一ノ坂遺跡。[山形県米沢市]

山形県米沢市です。

なんの変哲もない原っぱですが、
何を隠そうこの場所が、国内最長の大型住居跡が発見された
一ノ坂遺跡」なのでありますっ。



一ノ坂遺跡。[山形県米沢市]
「大型竪穴住居跡」。


=== 案内板より ===
一ノ坂遺跡
一ノ坂遺跡は、斜平丘陵の山麓に広がる
今から約6000年前の縄文初頭の遺跡です。
平成元年に実施した住宅建設に伴う調査により、
我国最長の43.5メートルの大型住居跡と炭化クルミ、
土器などが見つかっています。
また、8棟の竪穴住居跡が隣接して連続する連房式竪穴住居跡や
メノウ製品の装身具を副葬した墓壙などが
約1万平方メートルの範囲に分布しています。



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館山城跡。[山形県米沢市]

山形県米沢市です。

あの有名な独眼竜政宗、伊達政宗さんは実は
米沢出身の方だって知ってました?
あれですっ、「館山城跡」。
橋の向こうに見える、山にあったお城です。



館山城跡。[山形県米沢市]

小雨にめげて、これ以上行きませんでしたが、
橋の手前に小さな資料庫?がありました★
ご自分でシャッターを開けてご覧くださいっ、的な(笑


=== 案内板より ===
館山城跡
館山城は、伊達晴宗が天文17年(1548)に福島県桑折(こおり)西山城から
米沢に拠点を移した際の主城と考えられています。
以後、伊達氏は、輝宗、政宗と引き継ぎ、
天正19年(1591)に政宗が岩出山(岩手沢)城に移るまでの43年間を
ここ米沢で過ごしました。


館山城跡。[山形県米沢市]

本城は大樽川と小樽川に挟まれた舌状丘陵部に築かれた
全長350メートルを有する山城で、大規模な土塁と堀切や縦堀によって、
主郭(曲輪Ⅰ)、馬出(曲輪Ⅱ)、西曲輪(曲輪Ⅲ)を構成しています。
遺存状況も良好で、大手門・物見台・虎口・枡形・搦手・
帯曲輪等の遺構も明確に残っています。
城の周囲には、3個所の平坦地(南館・北館・東館と仮称)が置かれ、
北館からは石垣を配した遺構や家臣団の屋敷跡群、
東館からは庭園跡の一部や井戸跡、敷石遺構が
発掘調査によって検出されています。
また、南館からは大規模な空間を整地していることが確認されています。
このように館山城は、自然の地の利を活かした要害の城で、
山城を本丸として直下に居館を配置する構造は、
後の岩出山城や仙台城にも取り入れられ、
伊達氏山城の原点となったものと考えられます。
云々。。。



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小野川温泉 たかさごや。[山形県米沢市]

小野川温泉 たかさごや。[山形県米沢市] 小野川温泉 たかさごや。[山形県米沢市]
(写真はクリックで大きくなります。)

山形県米沢市、「小野川温泉」です。
ランチで梯子して、お腹一杯になったところで到着~★
今夜のお宿、「たかさごや」さんです。

正面から見るとなかなか重厚な建物です。
エントランスには吊るし雛とお釜がありました。
ここでご飯を炊くのかな?



小野川温泉 たかさごや。[山形県米沢市]

というわけで、チェックインを済ませお部屋へGO→

おぉ~、コタツですね~。
めちゃめちゃくつろげそうな和室であります♪

そしてこちら、
チョイと向こうのテラスに出てみると、、、


小野川温泉 たかさごや。[山形県米沢市]

おぉっ! なんと、半露天風呂付きっ!
それも浴槽が甕っ!(笑

湯口から出ている源泉はけっこうな熱さです。
ちょろちょろと少な目に注ぐことで温度調節してるのですねー。
早速いただましょう (=゚ω゚)ノ

いい塩梅ですっ。
湯加減サイコウ★ 白い湯の花。
硫黄の香りがふわふわと漂います。
なめてみると、ちょっとしょっぱいですねー。
それにしても柔らかいお湯です。いつまでも浸かっていられそう。

う~ん、期待していた以上の温泉であります。。。
さぁ、この極上のお湯に、何度でも浸かってしまおう♪
小野川温泉、恐るべし。。。



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お食事処 龍華。[山形県米沢市*小野川温泉]

山形県米沢市「小野川温泉」です。

ランチの梯子、2軒は、「お食事処 龍華」さん。
こちらも人気のお店らしく、
お昼の遅い時間にもかかわらず満席でありました☆



お食事処 龍華。[山形県米沢市*小野川温泉]

少々のウェイティングの後、テーブル席に陣取ります。
先ずは生ビール、それと「となりの冷やっこ」をお願いしました。

どうして〝となりの~〟なんですか?って、
それはお隣がお豆腐屋さんだから。
風味がしっかりしていて美味しい冷やっこです♪



お食事処 龍華。[山形県米沢市*小野川温泉]

せっかくの米沢ですから山形のお酒を楽しもう☆
地元の東光と、高畠町の米鶴。どちらもスッキリしていて飲みやすい。

アテには「赤かぶ漬」。
もう、止まりませんっ。
すみませーん、十四代と雅山流もくださいっ (=゚ω゚)ノ



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おうちカフェ ぼぬーる。[山形県米沢市*小野川温泉]

山形県米沢市です。

初めての「小野川温泉」。
温泉街を散策後、ちょっと遅めのランチタイムであります。、
おうちカフェ ぼぬーる」さんにお邪魔しました。



おうちカフェ ぼぬーる。[山形県米沢市*小野川温泉]

いやー、いろいろ見て回りました (=゚ω゚)ノ
自分的にはかなりの面白さであった史跡巡り。
ん~、冷たぁ~いビールが美味しいっ。
米沢、来てヨカッタ(笑



おうちカフェ ぼぬーる。[山形県米沢市*小野川温泉] おうちカフェ ぼぬーる。[山形県米沢市*小野川温泉]
(写真はクリックで大きくなります。)

というわけで、本日のお昼、
ランチメニューの中から私が選んだのは、「季節のパスタ」。
ミニサラダとドリンクが付いてくるセットメニューです☆

サラダは「大根のサラダ」と「ブロッコリーのタルタル」。



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塩田跡地。[山形県米沢市*小野川温泉]

19日、いろいろな自粛要請が解除され、県をまたぐ移動も解禁されました。
3月にアップしてそのままにしていた、山形の小野川温泉の続きです。

。。。


山形県米沢市「小野川温泉」です。
温泉街を散策し、少し遅めのランチかな?
と思ったところで史跡を発見 (=゚ω゚)ノ

上杉鷹山公塩田跡」であります。


=== 案内板より ===
塩田跡地
米沢藩9代藩主の上杉鷹山公はこの地で製塩事業を行いました。
当時の米沢藩は深刻な財政悪化により
幕府への領地返上も検討されました。
鷹山公は質素倹約に努めるかたわらたくさんの事案をてがけ
藩財政の改善を目指しました。

小野川温泉での製塩事業もそのひとつ
1772(安永元)年、米沢藩では仙台から技術者を招き
温泉を使った塩づくりを行いました。
温泉を何度も砂にまき乾燥させ、塩分が付いた砂を溶かし、
火にかけ水分を蒸発させるという方法で「塩」を取り出しました。
云々。。。



塩田跡地。[山形県米沢市*小野川温泉]

こちらの池になっている場所がそうなのでしょうか?
その時代に温泉から塩を作ろうと試みたんですねー。
上杉鷹山公、恐るべし?!



以前の記事はこちらから。
小野川温泉のいろいろ。[山形県米沢市]

【上杉鷹山公塩田跡】
@山形県米沢市小野川町


甲塚古墳。[下野市]

下野市です。

「下野国分寺跡」のすぐ隣にあります。
一見雑木林、しかし案内板が建っているのでそれが古墳と気付きます。
甲塚古墳」です。

「しもつけ風土記の丘資料館」では拝見出来なかった、
あの〝機織形埴輪〟が出土した古墳なのですっ。



甲塚古墳。[下野市]

=== 案内板より ===
史跡 甲塚古墳(かぶとづかこふん)
甲塚古墳は、6世紀後半頃に築造された帆立貝形の前方後円墳です。
墳丘は2段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇)の幅が広いのが特徴です。
墳丘の大きさは、推定全長80m、墳丘第一段はほぼ円形で、
外縁の直径が61mになります。
南側は前方部側に張り出す可能性がありますが、未調査のためわかっていません。
墳丘第二段は全長47m、後円部径34m、前方部長14.5m、
前方部前端幅17mになります。
埋葬施設は凝灰岩の切石を使用した横穴式石室が
前方部の前端に確認されています。



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下野国分寺跡。[下野市]

下野市です。

前回に続いての「下野国分寺跡」です。
久しぶりに訪れた史跡ですが、ずいぶんと綺麗に整備されていたので驚きました。
これなら見学しやすいですネ。



下野国分寺跡。[下野市]

===
下野国分寺跡
寺院の規模と時期別変遷
下野国分寺跡は、奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の詔によって
全国60数か所に建てられた国立の寺院のひとつです。
伽藍(寺の建物)配置は、全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式で
南北一直線上に南から、南大門・中門・金堂・講堂・僧房が並び
中門と金堂は回廊によってつながっています。
塔は回廊の外側東方におかれ、基壇の規模から七重塔であったと
推定されています。
また、金堂・講堂を挟んで東西には経蔵・鐘楼がおかれています。
これまでの発掘調査で、寺院の敷地が東西413m、南北457mの広さであることや
金堂、塔など建物の大きさが判明しました。また、溝や堀などのつくりかえから、
伽藍地とその外側を区画する寺院地の範囲や変遷が明らかになり、
1~4期に時期区分されています。
1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの創建期、2期(8世紀後半~9世紀前半)は
主要堂塔が完成し、それらの建物を掘立柱塀で囲む時期、
3期(9世紀後半)は伽藍地を縮小して掘立柱塀を築地塀につくりかえ、
寺院全体を大改修した時期、4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修や
溝の堀り直しをおこなわなくなる衰退期と考えられています。
下野国分寺の終焉は明確になっていませんが、
遺構・遺物からみると11世紀ないし12世紀まで寺院として機能していたと
考えられます。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市] 下野国分寺跡。[下野市]
(写真はクリックで大きくなります。)

===
寺院地溝
■寺院地溝とは
・寺院空間を区切るための溝。
■規模
・東西413m・南北458m、幅約2m・深さ約1mの溝。
・北東隅が折れ曲がっているのは地形の制約(低地)のためと考えられます。
辺は甲塚古墳の周溝を避けて掘られています。
■変遷
・複数回の堀り返しがありますが、10世紀以降は自然に埋まったと考えられます。
■現状
・南西隅・北西隅部は県道の西側です。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市]

===
南門
■南門とは
・寺院の敷地として区切られた空間へ出入りするための門。
■構造
・掘立柱の門。瓦葺きでない。
・門の形は不明。柱の間隔が広すぎるので、形がわかりませんでした。
(屋根のつかない冠木門の可能性もあります)
■規模
・柱の間隔6m。
■建て替え
・2回以上の掘り返しが確認されています。
・最終期は、直径30cmの太さの柱使用。
■門と参道
・門の正面の寺院地溝は、土橋状に埋め戻され、通路になっていました。
云々。。。



下野国分寺跡。[下野市]

下野国分寺跡。[下野市]

===
南大門
■南大門とは
・築地塀で区切られた伽藍空間への南側出入口。
■構造
・基壇の規模から建物(推定)五間三戸(両端が壁で扉が3か所)の門と考えられます。
■基壇規模
・東西約21m(70尺)・南北約9.6m(32尺)礎石の位置や階段の幅や出幅は
不明のため復元表示していません。
■変遷
①創建当初、門は無かったと考えられます。
②8世紀後半に掘立柱塀と共に棟門(柱間3.9m)ができました。
③9世紀後半に瓦葺き基壇建物と築地塀に建て替えられたと考えられます。
■見学の際の注意
・礎石の位置や階段の幅・出幅は不明のため復元表示していません。
・階段の形状は復元ではありません。
云々。。。



[下野国分寺跡。June. 2020 その2 [下野市]]の続きを読む
下野国分寺跡。[下野市]

下野市です。

下野国分尼寺跡に続いてやって参りました、
下野国分寺跡」です。
以前来た時よりもずいぶんと整備されております。

と、史跡を拝見する前に、
案内パネルで少し予備知識を入れておきましょう。



下野国分寺跡。[下野市]
「平城京大極殿」。


=== 案内板より ===
1.時代背景
はじめに
国分寺が造られたのは、今から約1250年前。
皆さんはそのころの様子やなぜ国分寺が造られたのか想像できますか?

律令国家の成立
飛鳥・藤原京の時代、「日本」という中央集権的な国家をつくるため、
唐(中国)の法律を参考に西暦701(大宝元)年、大宝律令がつくられました。
この法律制定事業には、下野市と関係の深い下毛野朝臣古麻呂が
深くかかわっていました。
その後、都が平城京(現在の奈良市・710~784の74年間)に置かれた
この奈良時代に、下野国分寺と尼寺は造られました。
※律は罪と罰を定めた刑法、令は国を治めるしくみを定めた法令

天平の光と影
聖武天皇の時代、律令制度が整い国家の力が全国に及ぶとともに、
唐や東アジアなどとの交流により、国際色豊かな天平文化が花開きました。
しかし、この華やかな時代背景の一方で、
現実の社会の動きと律令制度の間で様々な矛盾があらわれてきました。
西暦729年には、年号が神亀から天平にかわりました。
この「天平」改元の背景には、伝染病の流行、災害、政治の混乱など、
不安と苦悩から逃れたいとの願いがあったとも言われています。
云々。。。



下野国分尼寺跡。[下野市]
「東大寺金堂(奈良市)」。

===
2.国分寺建立について
国分寺建立の目的
700年代の中頃、飢餓や病気の流行、地震などの災害、
貴族の対立や政治の混乱により社会に不安が広がりました。
741(天平13)年、聖武天皇は大陸から伝わった仏教の教えで
国が安泰となることを願い、当時60余りの国ごとに国分寺と国分尼寺を
造ることを命じました(国分寺建立の詔)。
この建立の背景には、聖武天皇とともに妃である光明皇后の
仏教への厚い信仰があったからといわれています。
僧寺には、像高一丈六尺(4.8m)の釈迦如来像や脇侍菩薩二体、
四天王像が安置され、尼寺には阿弥陀丈六仏や脇侍菩薩二体などの仏像が
安置されました。



[下野国分寺跡。June. 2020 [下野市]]の続きを読む
下野国分尼寺跡。[下野市]

下野市です。
「しもつけ風土記の丘資料館」にて軽めにお勉強をした後は、
同じ公園内にある「下野国分尼寺跡」にやって参りました。


こちらは「中門址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

「金堂址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

「経蔵址」。



下野国分尼寺跡。[下野市]

=== 案内板より ===
史跡 下野国分尼寺跡
国分尼寺の建立は、奈良時代の天平13(741年)、
聖武天皇が国家の平安を祈願し、国分寺建立の詔を発したことにはじまります。
国分尼寺は国分寺と同様に国ごとに建てられた官立の寺院で、
妙法蓮華経を根本の経典とし、10人の尼が置かれていました。



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しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

下野市です。
最近、下野市?というか、たぶん3月頃の記事です。
今になってのアップであります。。。


しもつけ風土記の丘資料館」。
下野国分寺跡のお隣にある博物館です。
さっそく参りましょう。



しもつけ風土記の丘資料館。[下野市] しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]
(写真はクリックで大きくなります。)

=== 案内板より ===
重要文化財指定 甲塚古墳出土遺物
甲塚古墳は、隣接する下野国分寺跡史跡整備事業の一環として、
平成16年度に発掘調査を実施しました。
出土した遺物は、遺存状態が良好なため、
埴輪の置かれていた位置や方向が判りました。
さらに、埴輪列の近くから多くの土器類がまとまって出土したことで、
古墳でおこなわれた当時の儀礼が復元できました。
また、類例のない2種類の機織型埴輪が出土したことで、
古墳時代における織機の構造と多様性が明らかになりました。
これらの遺物は、高い学術的価値を有しているとされ、形象埴輪23点、
土器類74点の合計97点が、重要文化財に指定されました。
云々。。。

しもつけ風土記の丘資料館。[下野市] しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

===
甲塚古墳 馬形埴輪彩色復元
形象埴輪列は、基部が墳丘上に樹立した状態で残存しており、
古墳築造当時の配置状況を復元することができました。
また、埴輪の遺存状態が良いことから埴輪に塗られた彩色
(赤・白・黒・灰)についても復元することができました。
云々。。。



しもつけ風土記の丘資料館。[下野市]

===
出現期の古墳
古墳の築造は、3世紀末か4世紀はじめころに、畿内地方を中心に開始され、
やがて4世紀後半ころには東北南部から九州南部にかけて
広く分布するようになりました。
古墳の出現は、新しく台頭した政治的支配者の存在を示しており、
古墳の各地への広がりは、地方の首長が大和政権の影響下に入ったことを
意味しています。
本県では、他地域に先んじて那須地方(那珂川流域)と宇都宮地方(田川流域)
に古墳が出現し、古墳時代の幕が明けられました。
云々。。。



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三王山古墳群。[下野市*三王山ふれあい公園]

下野市です。
「三王山南塚古墳」に続いてやって参りました、
三王山ふれあい公園」です。

で、なぜにこちらの公園かと申しますと、
あそこですねー。
向こうに見える森と化した敷地の中に、古墳があるんですねー。



三王山古墳群。[下野市*三王山ふれあい公園]

おぉ、これだぁ。「三王山古墳群」。


=== 案内板より ===
三王山古墳群
40号墳(円墳)



三王山古墳群。[下野市*三王山ふれあい公園]

ひとつ目は円墳ですね。
トップに石祠が祀りされていました。



三王山古墳群。[下野市*三王山ふれあい公園]

2つ目は前方後円墳。


===
39号墳(前方後円墳)
三王山地区は市内でも最も古墳が集中している地域であり、
三王山古墳群と呼称されています。
この古墳群は古墳時代前期から終末期までの古墳が
50基以上確認されております。



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三王山南塚古墳。[下野市]

やっぱりもう少し古墳が観たいなー、
というわけで足をのばしました、下野市まで。

こちら「三王山南塚古墳」。
はいっ、前方後方墳です。

向かい合って2つの古墳があります。
道路を挟んで東が1号墳、西が2号墳です。



三王山南塚古墳。[下野市]

たぶん、こちらは2号墳。

う~ん、、、



三王山南塚古墳。[下野市]

ちょっと入っていける状態ではありませんっ(汗、、、


=== 案内板より ===
三王山南塚古墳(1・2号墳)
田川の東、南北に伸びる台地上に残る古墳群の南端部、
三王山南塚古墳は、道路をはさんで東側を1号墳、西側を2号墳と呼ぶ
いずれも4世紀代、古墳時代前期に造られた前方後方墳である。



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山王寺大桝塚古墳。[栃木市]

栃木市にある「山王寺大桝塚古墳」にやって参りました。

こちらの古墳は前方後方墳です。
鍵穴の形をした後円墳ではなくて、
四角いのが2つくっついた後方墳です。



山王寺大桝塚古墳。[栃木市]

=== 案内板より ===
三王寺大桝塚古墳
(1)規模 全長96m、後方部幅48m、前方部長さ48m
(2)主体部 粘土槨、土壙
古墳は、巴波川右岸の低地に築かれた比較的大規模な前方後方墳です。
前方部を西に向け、スマートな形をしています。



山王寺大桝塚古墳。[栃木市]

昭和50年の調査の結果、後方部のほぼ中央に古墳の主軸に沿って
粘土槨とその南側から土壙が発見されました。
粘土槨は粘土と小石混じりの砂によって造られ、
木棺を安置したと考えられています。
粘土槨からは、鏡1・太刀1・槍鉋2・鉄剣3・鉄斧2・銅鏃28・鉄鏃2・靫1・ガラス小玉が、
粘土槨北側からは土師器の坩1・鉄剣2・鎌1・鉄鏃1・刀子1が、
土壙からも、鉄製品と管玉などが出土しています。



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