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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

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BECCAN ノ 忘年会 2020。

毎年恒例の「忘年会」。
BECCAN blogに携わった方々が集まる、
年に1度の宴会であります♪

いつもですとこんな風に始まる忘年会のエントリーですが、
今年はどうにも勝手が違います(汗、、、



BECCAN ノ 忘年会 2020。

コロナの第3波が襲来、自粛要請が叫ばれる中、
アップしていなかった写真での記事となりました (=゚ω゚)ノ



[BECCAN ノ 忘年会 2020。]の続きを読む
虚空蔵塚古墳。[渋川市]

渋川市です。
あの鉄塔の下に小さな看板が見えます。



虚空蔵塚古墳。[渋川市]

虚空蔵塚古墳」です。


=== 案内板より ===
虚空蔵塚古墳
文化財の概要
この古墳は横穴式の円墳(直径13メートル)で、
榛名山二ッ岳の噴出による軽石層(6世紀後半)の上に造られたものである。



[虚空蔵塚古墳。[渋川市]]の続きを読む
酒菜 玄檎。[足利市]

足利市にある和食のお店「酒菜 玄檎 gengo」さんにお邪魔しています。

めっきり寒くなりました。そんな今夜は熱燗でスタート☆
お通しは「おでん」です。
うずら、大根、こんにゃく、黒はんぺん、ちくわ、etc。。。
ボリューム満点のお通しであります♪



酒菜 玄檎。[足利市]

「刺身盛り合わせ」。
まぐろ、ネギトロ、イカ、などなどの6点盛りです。
ナニゲに好きです、北海酢蛸 (=゚ω゚)ノ
ヒラメのとろろ昆布〆もいーです。



酒菜 玄檎。[足利市]

やめられないとまらない~♪的な美味しさの「大玉銀杏塩煎り」。
メニュー通りのプリプリしてて大きなヤツ(笑
お酒もすすみます★

熱燗、もう1つくださいっ。



[酒菜 玄檎。December.2020 [足利市]]の続きを読む
BAR エイト。[足利市]

い~感じのダウンライトで、い~気持ちです。
足利の「BAR エイト」さん。

BGMはジブリ。

「サイドカー」をいただきながら。。。



[BAR エイト。December.2020 [足利市]]の続きを読む
悪源太義平の墓。[太田市*清泉寺]

太田市にある「清泉寺」にやって参りました。
こちらのお寺さん、誰も居なくてちょっと荒れた感じなのですが。。。

正面入口の門のところにこんな案内板があります。


=== 案内板より ===
清泉寺
義平山清泉寺は、東京湯島霊雲寺に属し真言律宗の祈祷寺であった。
創建はつまびらかでないが平安末期に悪源太義平(よしひら)の妻が
ここに庵を結んだのがこの寺の起源だといわれる。
時を経て江戸時代の寛保年中(1741~1744)高健教岳により中興された。

悪源太義平は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄である。
15歳の時叔父義賢(よしかた・木曽義仲の父)を
武蔵大蔵館(現嵐山町)に討ち悪源太といわれた。
ここで悪とは善悪の悪ではなく勇猛という意味である。
平治の乱には父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門(たいけんもん)の戦いでは
平家の嫡子重盛と一騎打ちをしたことで有名である。
戦局は源氏に利非ず父義朝は討たれた。
義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったが捕えられ
六条河原で斬首された(20歳)。
義平の妻は新田義重の娘であったが、
夫の死を知り京に上ってその首を秘に持ち帰りこの地に埋葬し、
剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったという。
当時の山号を義平山というのもそれゆえである。

境内西側に義平と称する石塔があり次の銘文がある。
悪源太義平公御廟
永暦元庚辰年正月廿五日
永暦元年(1160)は義平の没年である。
また傍の宝篋印塔は梵字のみで銘文がなくその由来は全く不明であったが
昭和55年経筒が発見されその中の経文の奥書により
8代将軍吉宗の次子田安宗武が、娘誠姫と婚約者の伊達重村の寿福を祈願して
霊雲寺四世法明に命じて宝暦5年(1755)建立させた。
云々。。。


悪源太こと「源義平の墓」があるんです。
源頼朝さんのお兄さん★

では参りましょう。



[悪源太義平の墓。[太田市*清泉寺]]の続きを読む
元津軽藩代官足立氏之墓。[太田市*東楊寺]

太田市の「東楊寺」さんにやって参りました。
なぜこちらのお寺さんに来たのかと言えば。。。

そうですっ、



足立氏の墓。[太田市*東楊寺]

ドンっ!

元津軽藩代官足立氏之墓」があったから!
ずらりと並ぶ歴代津軽代官の方々のお墓。



元津軽藩代官足立氏之墓。[太田市*東楊寺]

一番左の宝篋印塔は初代代官・足立源右衛門さんのもので、
その右にある五輪塔は2代・源右衛門さんのものだそうです。


=== 案内板より ===
尾島町と弘前市
尾島町と青森県弘前市(津軽藩)との歴史的なゆかりは、
戦国時代末期にまでさかのぼる。
津軽藩は為信のとき、南部氏より自立、天正18年(1590)には
豊臣秀吉の小田原征伐に参戦、奥州平定にも味方し、
秀吉から津軽一円の領有を認められていた。
為信の二男信堅は徳川家康に仕え上州の地2千石を与えられていたが、
若くして亡くなったと伝えられる。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に、為信は徳川方として参戦したが、
上州の津軽領大舘村をはじめ八ヶ村の農民も従軍したと伝えられる。
このとき津軽の本領4万5千石は、家康から安堵され、
翌6年には関ヶ原の戦功により、信堅ゆかりの上州2千石が、
あらためて加増された。
上州八ヶ村は大舘村、安養寺村、出塚村、村田村、赤堀村、
下江田村(現太田市)女塚村、境村(現伊勢崎市)であり、
その中心大舘村に足立氏を代官として居住させ、これを管割させた。
大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、江戸と至近な距離にあったため、
参勤交代など江戸出府の折りには藩主も滞在した。

2代藩主信枚のぶかず(のぶひら)の側室辰姫(一説には石田三成の娘)は
大舘御前と呼ばれ、この陣屋で誕生した信義は津軽第3代の藩主となった。
明暦2年(1656)3代藩主信義の弟信英(のぶふさ)は黒石に分家するが
上州の地2千石はこのとき信英の領地となり、
以後元禄11年(1698)まで津軽分家(文化6年黒石藩となる)の領地であった。
津軽初代為信は慶長年間(1596~1615)安養寺明王院に畑三反を寄進、
津軽分家(黒石)2代信敏は天和2年(1682)に大舘に八幡の社殿を建立したと
弘藩記録は伝えている。
東楊寺には代官「足立草宿大居士」の五輪塔をはじめ足立氏ゆかりの墓石があり、
大舘村には前記信敏建立と考えられる八幡宮本殿が現存し、
また信敏在銘の八幡神像の絵軸が保存されている。
云々。。。



[元津軽藩代官足立氏之墓。[太田市*東楊寺]]の続きを読む
インド料理 スーリヤ SURYA。[足利市]

今日のランチはインド料理のお店「スーリヤ SURYA」さんにて。
in 足利市デス。

お願いしたのは「3種類カレーランチ」。
3種類のカレーと、サラダ、ドリンク、デザートが一緒になった優れモノ。
写真は人参ドレッシングが美味しいサラダ♪



インド料理 スーリヤ SURYA。[足利市]

それと「おつまみセット」もお願いしました(笑
ビールとオツマミのチョイ飲みセットです。

インドのタージマハルビールと、



インド料理 スーリヤ SURYA。[足利市]

オツマミは「タンドリーチキン」が2ピース。
やわらかでメチャ食べやすいチキンです (=゚ω゚)ノ



[インド料理 スーリヤ SURYA。December.2020 [足利市]]の続きを読む
菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]

埼玉県嵐山町です。
「埼玉県立嵐山史跡の博物館」は「菅谷館跡」の一画に建っていますから、
建物を出ればすぐ側に遺構が見られます。
ここは駐車場の出入り口のところ。


=== 案内板より ===
喰い違い虎口(伝搦手門跡)
城への入口や城内の郭への入口を虎口と呼びます。
菅谷館跡の城内への入口は、二重土塁の内側の土塁を前後に3mほどずらした
「喰い違い虎口(くいちがいこぐち)」になっていて、外部からの侵入に備えています。
云々。。。


ではでは参りましょう。



菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]

===
三ノ郭(さんのくるわ)
城跡北側の喰い違い虎口を入ると、東西に広がる平場があります。
江戸時代後期から三ノ郭と呼ばれています。
面積や位置から、武士や騎馬の集合場所として利用されたと考えられます。
云々。。。



菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]

===
蔀土塁(しとみどるい)
堀に面した虎口の内側にある小さな土塁は、
西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないようにするものです。
平安時代の邸宅で使用された風雨や日光を遮る道具の蔀(しとみ)
の名前からとって、視線を遮る土塁を「蔀土塁」と呼んでいます。
云々。。。



菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]

===
正坫門と木橋
ここは、三ノ郭の出入り口で正坫門とよばれ幅が約5間(9メートル)あります。
発掘調査の結果、西ノ郭より約1メートル高く盛土していたことがわかりました。
この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、
敵軍の侵入が困難となるよう工夫したものと思われます。
調査によって堀の中段から、
木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、
現在ある橋はそれをもとに推定復元したものです。
しかし、実際の橋がどのようなものであったかは、わかっておりません。
云々。。。



菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]

「西ノ郭」。



[菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]]の続きを読む
埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]

埼玉県の嵐山町です。
埼玉県立嵐山史跡の博物館」にやって参りました。
菅谷館跡の一画に建てられた博物館です。


=== 案内板より ===
菅谷館跡
比企郡嵐山町大字菅谷に所在する多郭式の平城で、
鎌倉街道に面する台地の縁に築かれています。
鎌倉時代のはじめ、北武蔵の有力豪族畠山重忠(はたけやましげただ)
の居館になったと伝えられていますが、
重忠の死後は、わずかな文献に名を記されるだけです。
この館は、その後数度にわたる郭の拡張を経て、
戦国時代には、現在の姿に整えられたものと考えられます。
1973年(昭和48)、武蔵武士の館に起源をもつ中世城郭の遺跡として、
国の史跡に指定されました。
云々。。。



埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]

===
畠山重忠
畠山重忠は、1164年(長寛2)大里郡川本町の畠山に生まれました。
父は畠山重能、母は相模の三浦義明の娘です。
1180年(治承4)、源頼朝が挙兵すると、まもなく頼朝に仕え、
鎌倉入りや富士川の合戦では先陣をつとめ、
宇治川や一の谷の合戦などで活躍しました。
頼朝の死後も、御家人として幕府を支えましたが、
1205年(元久2)、幕府内部の勢力争いにまき込まれ、
二俣川(横浜市旭区)で非業の死を遂げました。
云々。。。


そうなんです、この方、畠山重忠さん。
鎌倉時代初期の武将です。

以前訪れた「妻沼聖天山」を創建したと云う斉藤実盛さん。
斎藤さんをチェックしたいたら出てきた畠山氏。
そんな繋がりを追って来たみた博物館です。



埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]

===
畠山重忠の墓と伝える五輪塔
この五輪塔は重忠が再興したといわれる満福寺(深谷市畠山)に一度移され、
後に現在の場所に戻されたといいます。
塔の下から蔵骨器(骨壺)が発見されました。
云々。。。



埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]

菅谷館エリアの資料の展示。
「秩父氏の本拠・嵐山町」と「大蔵館跡周辺の字名」の解説。



[埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]]の続きを読む
宮塚古墳。[埼玉県熊谷市]

熊谷駅からずっと西へ。
新幹線の高架沿いをたどった畑の中。

あそこに見えるのが、そう、「宮塚古墳」であります。



宮塚古墳。[埼玉県熊谷市]

なぜこの古墳が見たかったかと言うと、
それは、こちら。


=== 案内板より ===
国指定史跡 宮塚古墳
宮塚古墳の墳形は、方台の上に円形の墳丘がのる形状で、
上円下方墳と呼ばれ、ほぼ完全な形で保存されている。
全国的に類例が少ない墳形で、貴重なものである。



宮塚古墳。[埼玉県熊谷市]

下方部は、東辺約17メートル・西辺約24メートル・高さ約2メートルである。
上円部は中央からやや北寄りに築造されており、
直径約10メートル・短径約8メートル・高さ約2.15メートルである。
この上円部には、盛土が崩れないための補強、
または装飾を兼ねた葺石が置かれている。
築造年代は、古墳時代終末期(7世紀末)と推定されている。
なお、この古墳は山王塚やお供え塚と呼ばれていた。
云々。。。



[宮塚古墳。[埼玉県熊谷市]]の続きを読む
魚政。[足利市]

今日のランチは「魚政 uomasa」さんにて。
in 足利市。

先ずは瓶ビール(笑、
お通しは「人参のたらこ和え」です。



魚政。[足利市]

ビールをやっつけたら日本酒を。
赤城山の小瓶♪

そしてお酒のお供にはかかせないのが「きも焼」です (=゚ω゚)ノ
美味しい★



[魚政。December.2020 [足利市]]の続きを読む
保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]

小栗終焉の地からの帰路。
やはり高崎まで来たのだから寄って行こう。
保渡田古墳群 八幡塚古墳」です。

いつ来てもいーです♪



保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]

今日は埴輪を少々。。。


===
人物・動物埴輪群像
内堤の上に、円筒埴輪による区画(約11m×5m)を設け、
54体ほどの形象埴輪(人物や動物・道具類をかたどった埴輪)が置かれていた。
この区画の最初の調査は1929(昭和4)年に行われたが、
出土埴輪の約半分は失われた。
ここに復元した埴輪は、現存資料や記録類、
新たな出土資料を検討したうえ、想定復元したものである。

椅子に座った人々のグループ、立ち姿の人々のグループ、
狩りをする人と動物、整列する人や動物のグループなど
いくつもの場面が見られ、様々な儀礼の様子を表したものだと考えられる。
東日本の人物・動物埴輪でも早い時期に属し、
かつ最も内容が整った事例として知られている。
云々。。。



保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]

ひつひとつに名称が付いているんですねー。
手前から、
「鳥を腕に据える男子」、「猪形を腰に付ける狩人」、と「鹿か?」。



保渡田古墳群 八幡塚古墳。[高崎市]

「魚をくわえる鵜」と、
その向こうにあるのっぺらぼうみたいのは、
「小型人物半身基部」と「大型人物半身基部」。



[保渡田古墳群 八幡塚古墳。December.2020 [高崎市]]の続きを読む
小栗上野介忠順終焉の地。[高崎市]

とても風の強い日でした。
小栗上野介忠順終焉の地」を訪ねました。
高崎市倉渕町です。



小栗上野介忠順終焉の地。[高崎市]

小栗上野介忠順さんは、江戸時代末期に活躍した幕臣、
近代化政策を行った人の一人です。
あとは調べてみてください(笑


=== 案内板より ===
小栗上野介忠順終焉の地
小栗上野介忠順(ただまさ)は、安政7(1860年)年1月
日米通商条約批准書交換のため目付役として渡米し、
帰国後、外交奉行・勘定奉行・陸軍奉行の要職につき、
幕府の重鎮として活躍した。
なかでも横須賀造船所の建設は彼の提唱によるもので、
当時は東洋一といわれた。



小栗上野介忠順終焉の地。[高崎市]

慶応4(1868)年、薩長等倒幕勢力に対し主戦論を唱えたが
とりいれられず免職され、領地権田村に隠棲した。
この頃、野州、武州一帯に起こった暴徒の一隊は、
小栗が多額の軍用金を持ち帰ったというデマに踊らされて本村に襲来した。
小栗方はこれを見事に撃退したが、これらの行動が、「小栗は強力な兵力を持ち
叛逆の企図あり」の虚言を生み、東山道総督府がそれを取りあげるところとなり、
小栗討伐令が下った。

小栗は養子又一を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳したが入れられず、
遂に囚われの身となり、慶応4年閏4月6日(太陽暦では5月27日)、
家来3人と共に水沼川原の露と消えた。時に42才であった。
云々。。。



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酒菜膳 忍。[足利市]

足利の和食屋さん「酒肴膳 忍」さんにお邪魔しました。
カウンター席は使えませんから奥のお座敷席に陣取りましょう。
他のお客様との距離もとってあり、コロナ対策万全の店内です★

先ずは生ビール、
お通しは、「お芋の煮たの」と「タコ」と「卵焼き」の3点。

タコの後ろにですねー。菊があったんですねー。
シャキシャキな菊が大好き。
食用菊は、かきのもととか、もってのほかって言うんですよね。
お代わりを替りいただいたのは言うまでもありませんっ (=゚ω゚)ノ



酒菜膳 忍。[足利市]

「お刺身盛り合わせ(上)」。
マグロにタコ、イカ、イクラ、ウニ、それと黒ムツの炙り。
新鮮な魚が綺麗に並びます。
やっぱりイカからイキますか?それともトロかな(笑

これは日本酒ですねー。お任せで2つお願いします。
旨みが深い黒ムツに感動しながら、あっという間にやっつけました☆



酒菜膳 忍。[足利市]

「ホッケ」です。
脂ものっていてサイズも大きいです。
久しぶりにいただいたホッケは、なんだかとても美味しくて
大好きな秋刀魚をも凌いでしまう勢いであります。
こんなに美味しかったんだ、ホッケ。。。



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足利公園古墳。[足利市]

「八雲神社」の裏に「足利公園古墳」があります。
前方後円墳1基、円墳9基で構成された古墳群です。


=== 案内板より ===
考古学の源 足利公園古墳
公園内のあちこちに古墳があり、往古、かなり栄えた土地であったことが判ります。
山頂附近に3基の立派な円墳があり、
明治19年、東京帝国大学の坪井正五郎先生により
日本最初の学術発掘調査が行われました。
日本の考古学の発祥の地とも言えましょう。
足利市には4~7世紀の古墳が多数散在しています。
云々。。。



足利公園古墳。[足利市]

===
足利公園第3号墳
本古墳は、平成5年度、保存整備に伴う発掘調査が行われ、
丘陵を巧みに利用してつくられた全長約34m、高さ6m以上(谷側から)の
前方後円墳であることがわかりました。
墳丘は2段築成で、河原石の葺石を持ち、
1段目テラスには小さな石がすき間なく敷かれ、
さらに、円筒埴輪が接して一列にならんでいました。
造られた当時は前面に石が張られ、異様な景観であったと推定されます。



足利公園古墳。[足利市]

そのほか、人物、家、盾、とも、ゆき、大刀、きぬがさの形をした埴輪が出土し、
墳頂部を中心に立てられていたと考えられます。
内部主体は、南東を向いた両袖式の横穴式石室です。
奥壁は、チャート(山石)の2枚重ね、側壁もチャートの割石を積んだものです。
全長7.9m、玄室長3.3m、玄室幅約1.8m、高さ約2.1mです。



足利公園古墳。[足利市] 足利公園古墳。[足利市]
「発掘調査で出土したとも形埴輪」、
「明治19年に出土した杏葉」。



本墳は、明治19(1886)年、足利織物講習所役員・峰岸政逸氏によって
発掘調査された足利公園第3号墳であると考えられます。
この発掘がきっかけとなって坪井正五郎博士による発掘調査が行われました。
当時の記録によれば、この古墳からは、金環、小刀、鉄鏃、轡、馬具、
杏葉、鎧小札等、さらに須恵器が出土しており、
甲冑を身につけ、馬具で飾られた馬に乗った支配者の姿が思い浮かびます。
峰岸政逸氏は、弘化2(1846)年、今福村に生まれ、
明治時代足利の機業界で活躍する一方、文化人としても知られていました。
本古墳は足利公園古墳群内で最も大きな前方後円墳として貴重です。
云々。。。



足利公園古墳。[足利市]

3号墳の後円部。
ぽっこりとしたお山のよう。。。



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八雲神社。[足利市]

足利市の「八雲神社」です。

同じ名前の神社さんが市内には5つあります。
こちらは総鎮守、緑町にある八雲神社さんです。


八雲神社。[足利市] 八雲神社。[足利市] 八雲神社。[足利市]

「狛犬」クンと「手水舎」。



八雲神社。[足利市]

「二の鳥居」。


=== 案内板より ===
八雲神社(牛頭天王)
佐野唐沢山城主、藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより、
貞観年間(859~876)に創建したと伝えられています。
また「栃木県神社誌」によれば、清和天皇の貞観11年(869)、
右大臣藤原基経(もとつね)が、当緑町に上社、5丁目に下社を
勅願所として創建したといわれています。
平将門の乱に平定祈願成就により、足利、梁田両郡の総鎮守となり、
牛頭天王と呼ばれ広く崇敬を集め、
朝廷や下野大掾からの参拝も行われたと伝えられます。
境内に、宝憧寺や本町薬師もあったようです。
云々。。。



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酒列磯前神社。[茨城県ひたちなか市]

磯前神社から磯前古墳群、続いてやって参りました「酒列磯前神社」です。

磯前神社の大鳥居ほどの大きさはありませんが、
堂々とした「一の鳥居」が迎えてくれます。



酒列磯前神社。[茨城県ひたちなか市]

一直線に延びた、ながぁ~い参道です。
先にある二の鳥居が霞んで見えます!?
ささ、参りましょう。



酒列磯前神社。[茨城県ひたちなか市]
酒列磯前神社。[茨城県ひたちなか市]

参道途中に「海の見える鳥居」。
すぐ側が海です。
漁港があります。



酒列磯前神社。[茨城県ひたちなか市]

「手水舎」。



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菜園レストラン ITARU。[足利市]

足利にある洋食屋さん、「菜園レストラン ITARU」さんです。
ドライバーmちゃんのリクエストでお邪魔しました★



菜園レストラン ITARU。[足利市]

菜園レストラン ITARU。[足利市]

奥のテーブル席に陣取ります。
先ずはハイボール。

写真はmちゃんの前菜。
「夢ポークの自家製無添加ハム」、「低温調理した赤城鶏のハム」、
「みねおか豆腐 和風ジュレのせ」、「自家製スイートピクルス」の4点。



菜園レストラン ITARU。[足利市]

「ITARUサラダ」。
旬の野菜の盛り合わせです。
お酒を嗜みますから野菜はたくさん摂りましょう。
気持ち良くなって行く私を横目に、mちゃんは酵素ジュースです(笑



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