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緊急事態宣言中に付き、過去記事をアップしています。
ご了承ください。


多胡館跡。[高崎市]

少しだけ迷いましたが、無事到着です。
この先にお目当ての史跡が待っているのです。
in 高崎市。



多胡館跡。[高崎市]

多胡館跡」ですっ。

雑木林の前にあるこちらの案内と、



多胡館跡。[高崎市]

「土塁」!
史跡は以上ですっ。


=== 案内板より ===
多胡館跡
多胡館跡は、一辺約100メートルの正方形に近い平面形をした館跡である。
ここは、歴史上有名な武将である木曽義仲にかかわる館であった。
木曽義仲の父義賢(よしかた)は一時この多胡館に住み、
義仲は挙兵した後、「上野国の多胡荘は、亡父の遺跡」として、
この地を訪れている。



多胡館跡。[高崎市]

平安時代の末期、京都にあって権力をほしいままにした平家を滅ぼした
中心的な武将は木曽義仲であった。
義仲は治承4年(1180)木曽で平家討伐の兵を挙げた。
挙兵跡倶利伽羅峠の戦いなどで勝利を収め、京都から平家を追い出した。
そして朝廷から征夷大将軍に任命されるなど武将として最高の地位についた。
しかし義経などの軍に敗れ、寿永3年(1184)近江国(今の滋賀県)で戦死した。

義仲の父は源氏の棟梁源為義(ためよし)の次男義賢である。
義賢は近衛天皇が皇太子だったころ(1139~1141)、
警護役である帯刀(たてわき)の長官だったという。その後多胡館に住んだらしい。
そして、義賢は久寿2年(1155)武蔵国大倉館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)で
甥に殺されているので、これ以前に多胡館から大倉館に移っていると考えられる。
これからすれば義賢が多胡館にいたのは1140年代から50年代にかけてということになる。



多胡館跡。[高崎市]
男衾三郎絵詞 江戸時代模本(神奈川県立歴史博物館蔵)

現在は宅地とまわりの屋敷林、竹林となっているが、
館跡の北側と東南角にあたる場所では、
館を囲う土塁と堀の跡を現在でも見ることができる。
また近年の吉井町教育委員会の発掘では、
堀から浅間山の1108年噴火のものと考えられる軽石層が見つかったことから、
噴火以前にこの館が存在したことが確かめられた。
云々。。。


なんで案内板に「男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろう えことば)の写真が?
と思っていたのですが、武藏武士を題材にした絵巻物だからなんですねー。
義賢さんが多胡館の後に嵐山の大倉館に移ったから。
これは大倉館跡にも行かなければいけませんね。。。



関連記事はこちらから。
木曽義仲さんの父・義賢さんを討った張本人。義賢さんの甥っ子。
悪源太義平の墓。[太田市*清泉寺]
幼かった木曽義仲さんを逃がしてあげた畠山重忠さんのセガレさん・重忠さんの館跡。
菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]
幼かった木曽義仲さんを逃がしてあげた斎藤実盛さんの館跡。
斎藤氏館跡実盛塚。[熊谷市]

以前の高崎市はこちらから。
保渡田古墳群 八幡塚古墳。December.2020 [高崎市]

【多胡館跡】
@群馬県高崎市吉井町多胡


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