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自粛要請期間中に付き、過去記事をアップしています。
ご了承ください。


篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]

邑楽郡邑楽町の「大信寺」にやって参りました。

なぜこちらのお寺さんなのかと言いますと、それは、
篠塚伊賀守重廣公 御廟」があるから!



篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]

不動明王様の後ろにある、、、



篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]

こちらです。

篠塚重広さんというのは、新田義貞さんの側近の武将で、
新田四天王の1人に数えられる方です。
栗生顕友、畑時能、由良具滋、
そして篠塚重広さんの4人だそうです☆


=== 案内板より ===
篠塚伊賀守重廣公 御廟
この御廟にある宝篋印塔には下図のように刻まれている。
智証大禅定門とは篠塚伊賀守の法名である。
暦応3年5月6日(1340年)を命日としているが伊賀守が沖之島に渡ったのが 
興国3年(1342年)を史実としているので矛盾がある。
また、この宝篋印塔は、隅飾が外側へ張り出していることから
江戸期の建立と思われる。



篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]
「篠塚伊賀守一族供養十三塔」

伊賀守は畠山重忠の6代目の子孫として1309年頃、篠塚に生まれ、篠塚城主となる。
1333年、新田義貞と共に新田四天王の1人として鎌倉幕府打倒に出陣した。
その後、南北朝時代の動乱の中、南朝方として各地を転戦する。
その功績により後醍醐天皇から伊賀守を賜る。


篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺] 篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]
「伊賀守の大音声に、さっと退く敵兵」 太平記絵巻 海北友雪(推定)画
埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵
「伊賀守敵船の帆を掲げる」 錦絵 國芳 大信寺所蔵


太平記によると、1342年、四国今治の世田山城の合戦で落城後、
唯一人敵中に繰り出し、大音声を張り上げて、
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。
畠山重忠6世の孫にて新田殿にも一騎当千なりといわれた篠塚伊賀守重廣ここにあり。
討ちとって勲功にあずかれい」と 敵陣に踊り込んだ。
伊賀守の名を誰一人知らない者はなく、敵はさっと退いた。
その中を悠々と通り過ぎ、今張浦まで歩くと、そこにあった敵船に飛び乗り、
水夫たちに頼んで沖之島(愛媛県上島町魚島)まで送り届けてもらった。
船が出た途端、疲れた伊賀守が、高いびきで寝てしまったので、
水夫たちは度肝を抜かれたらしいと記されている。



篠塚伊賀守御廟。[邑楽郡邑楽町*大信寺]
「碇石」 篠塚伊賀守重廣公が一人でかついだと伝えられる
波崎にある石と同型のもの 長サ2m45cm 重サ400kg


沖之島で3年を過ごし、その後、海路で波崎(茨城県神栖市)に帰還し、
船の碇石を記念に陸に安置した。
その碇石は現存し、その原寸大複製がここにある。
伊賀守は身長6尺5寸(195センチ)の豪勇で
8尺(240センチ)の金棒を武器とした怪力と伝えられ、
太平記には7回も登場するなど江戸時代までは、人気を博し
「篠塚五関破」という歌舞伎や錦絵などに描かれた。
左の絵はその場面を描いたものである。
云々。。。


畠山重忠さんのご子孫の方だったのですね。
ナニゲにリンクしていて歴史って面白いですネ。



以前の記事はこちらから。
八幡神社。[邑楽郡邑楽町]
畠山重忠さんの記事はこちらから。
菅谷館跡。[埼玉県比企郡嵐山町]
埼玉県立嵐山史跡の博物館。[埼玉県比企郡]

【篠塚伊賀守重廣公 御廟】
@群馬県邑楽郡邑楽町大字篠塚

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